論文書きに一応の区切りをつけて*1、奇剛草堂(Unique Hill Studio、天鑰橋路907号301室)へ行く。天鑰橋路といっても、上海体育館を横目で見ながら、中山南二路を渡った辺り。普通のアパート(公寓)の一室であり、常にオープンになっているのではなく、中に入るにはいちいち呼び鈴を捺さなければならないので、わかりにくいし、また敷居も高い。
で、何故そんなところに行ったかというと、26日付のShanghai Dailyに載ったZHOU Tao “The lost river of Shanghai”という記事を読んだからである。
その記事は”yangjingbang”という上海語の紹介から始まっている。”yangjingbang”とは”the poor Chinese spoken by newly arrived foreigners”を意味するという。そして、”yangjingbang”は実はかつて存在していた川の名前でもあった。現在も例えば「肇嘉浜路」という通りがあるが、その「浜(bang)」*2とは「運河(creek)」の意である。さて、”Yangjingbang”はそもそも黄浦江の支流であって、現在の延安路辺りを流れていた。記事が引用する上海歴史博物館のXUE Liyong氏によれば、その西端は現在の延安東路と成都北路の交差点あたりであった。1845年に英国租界が”Yangjingbang”の北側につくられ、1849年には仏蘭西租界が川の南側につくられる。”Yangjingbang”は英仏租界の境界をなしていたことになる。そのため、西洋人と地元中国人との接点となり、その辺りでは”a mix of the Shanghai dialect and English”である独特の「ピジン」言語が話されるようになった。そして、その「ピジン」言語は”yangjingbang”と呼ばれるようになった。また、現在の上海方言の語彙には、”yangjingbang”を起源とするものも多いという。”Yangjingbang”の埋め立ては早くから構想されていたらしいが、英仏の確執のため、埋め立てられ・”Yangjingbang”が消滅したのは1914年である。
記事には”photographic exhibition”とあったが、〈展覧会〉ではなく、中に入ると「奇剛草堂」のオーナーである蒋奇岡氏がギャラリーというかショップにあるコレクションを1枚1枚捲りながら解説してくれるのである。さらには、奥からリプリントではなく、オリジナル・プリントの写真を取り出して見せてくれる。英語と中国語をごちゃ混ぜにした、まさに”yangjingbang”を使っての30分だったが、すごく楽しい一時を過ごせた。因みに、”yangjingbang”であるが、漢字では「洋〓*3浜」であると、蒋氏に教えてもらった。
それから、近くの「楊家姑娘水餃館」にて、「羊肉香菜水餃」と青島。
軌道鉄道4号線の「上海体育館」駅は駅には入れるけれど実際には乗れない状態。いつ開通するのだ。