Tony Bennettなど

一昨日CDとDVDを買う。

Tony Bennett Duets II

Duets II

Duets II

王苕(Miao Wang)『北京出租車(Beijing Taxi)』*1
Beijing Taxi [DVD] [Import]

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See also


MIKE HALE “Bystanders to China’s Transition” http://movies.nytimes.com/2010/12/10/movies/10beijing.html


今日、3冊の本を読了。太田尚樹『伝説の日中文化サロン 上海・内山書店』、ジル・ドゥルーズ『批評と臨床』*2David Byrne Bicycle Diaries*3

伝説の日中文化サロン上海・内山書店 (平凡社新書)

伝説の日中文化サロン上海・内山書店 (平凡社新書)

批評と臨床 (河出文庫 ト 6-10)

批評と臨床 (河出文庫 ト 6-10)

Bicycle Diaries

Bicycle Diaries

反米?

内田樹*1「アンケートの続き」http://blog.tatsuru.com/2011/10/23_1031.php


これは「格差と若者の非活動性について」*2の続き。先ず続きの方から言及する、というか疑問を提起したい。
曰く、


戦後日本で大きな社会運動が起きたのはすべて「反米ナショナリズム」の運動としてです。
外形的には「左翼」主導の運動でしたので、本質は見えにくいですが、そうなのです。
内灘闘争以来の反基地運動、60年70年の二次にわたる安保闘争佐世保羽田に始まるベトナム反戦戦争などなど・・・巨大な動員をもたらした社会的な異議申し立ての運動はすべて本質的には反米闘争(すなわち「日本の主権回復闘争」)として行われました。
日本人が「社会正義」を要求して運動を起こすとき、それはつねに「反米ナショナリズム」とセットになっているというのが私たちがとりあえず戦後史から学ぶことのできる「パターン」の一つです。
たしかに戦後文化を語る上で「反米ナショナリズム」というモティーフを無視することはできないだろう。戦後、大衆的想像力において米国に対する敗戦の屈辱は「パンパン」を通して表象された。日本人(男性)にとって〈米国〉は何よりも(本来なら自分のものである)日本の女を誘惑し・犯し・堕落させる存在であり、また〈敗戦〉は自らの男性性の毀損だった(Cf. eg. 吉見俊哉『親米と反米』、p.107ff.)。「パンパン」或いは(戦後の日米関係の起源でもある)彼女たちが体現していた敗戦のトラウマを一種の〈黒歴史〉として封印してしまいたいという欲望は、取り敢えず国際法上の独立を達成した1950年代前半から存在していたといってよく、例えば松本清張ゼロの焦点*3はそのような封印への欲望が社会的に享有されていたことを背景とする物語だといえるだろう。また時代を遡って、幕末に〈黒船〉が来た段階で日本は米国によってレイプされてしまったという岸田秀的言説*4も(アカデミックな言説としてはナンセンスでありながらも)そのような戦後体験(の表象)に裏打ちされていることはたしかだろう。(生前朝鮮人であることが厳重に隠蔽されていた)力道山*5に対する大衆の眼差しにも米国への(演劇的)復讐、(米国に奪われてしまった)自らの男性性の(演劇的)恢復への期待があったといえるわけだし、そうしたモティーフは1970年代のローラー・ゲームにも引き継がれていた*6。他方、日本における左翼家元である日本共産党毛沢東主義の影響を受けつつ、長らく日本の現状を反殖民地状態であると規定し、〈反米愛国〉というスローガンを掲げていたということもある*7。たしかに戦後日本の社会運動に「反米ナショナリズム」という要素は存在した。しかし、それだけに還元することはできないだろう。反基地闘争にも〈男性性喪失〉のレトリックが使われていたということはあるにしても、それだけでなく、〈自分の土地が奪われる!〉という(「反米」も「親米」もへったくりもない)具体的な脅威に対する農民の抵抗や普遍主義的な平和主義の追求としても遂行されていたわけだ。また、60年安保にしても(表面的には「反米」に見えるかも知れないが)実は日本人自身による東京裁判のやり直し、岸信介打倒運動の性格が強かったわけだ*8。ヴェトナム反戦運動においては、「ナショナリズム」との関係はさらに稀薄になる。運動を動機付けたのはヴェトナム人への同情であり、さらには日本人自身の〈加害者性〉の自覚だった。また、反戦運動を担った新左翼のスローガンは端的に〈日帝打倒!〉だった。
親米と反米―戦後日本の政治的無意識 (岩波新書)

親米と反米―戦後日本の政治的無意識 (岩波新書)

ゼロの焦点 (新潮文庫)

ゼロの焦点 (新潮文庫)

ゼロの焦点(2枚組) [DVD]

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「「もともと日本には、弱者をとりこぼさないような相互扶助的な社会システムが整っていたのではなかったか?そのような『古きよき伝統』に回帰しよう」というタイプの主張を若者たちが掲げたら、大きな「うねり」が発生する可能性があります」。藤原正彦路線*9? これに対しては、「戦前のほうがよっぽど弱肉強食あたりまえで、ここで夢想されている回帰できる『古きよき伝統』など存在していない」という意見あり*10。「戦前」とは限らないでしょう。「存在していない」が故にノスタルジーが喚起されるということもありうるわけで、例えば神代とか。

それに対して、アメリカ国内では格差解消という主張がつよい訴求力を持つのは、それが「アメリカという国の建国理念」の確認にかかわるからです。
アメリカは理念の上につくられた国です。すべての人間は「造物主によって、生命、自由、幸福追求の権利を与えられている」という「自明の真理」を彼らは推論の基礎に置くことができます。
つまり、ウォール街でデモをしている若者たちの主張の本質的な正統性は、アメリカの独立宣言と、さらに言えば「神」によって保証されているのです(「権利」を実現する手続きについてはテクニカルな異論があるでしょうが)。
残念ながら、私たちの国の若者にはそのような思想的バックボーンがありません。
天上的な保証人がいない。日本国憲法でさえ、彼らはほとんど典拠にすることがありません(典拠にしたくても、それもまた「アメリカからおしつけられたもの」に他なりません)。
日本人は(それを「おしつけ」た)米国や自国の権力者に抗して日本国憲法を主体的に選び取ってきたとも言える(Cf. 雨宮昭一『占領と改革』)。改憲を党是とする自民党が一貫して政権を担ってきたにも拘わらず未だに改憲はされていない。それなのに、日本国憲法が「典拠」とならないのは持続低音としての「反米」故なのではないかとも思ってしまう。
占領と改革―シリーズ日本近現代史〈7〉 (岩波新書)

占領と改革―シリーズ日本近現代史〈7〉 (岩波新書)

*1:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20050531 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20050706 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060119/1137676496 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060120/1137745397 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060122/1137899122 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060128/1138470068 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060205/1139107434 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060206/1139201519 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060207/1139318386 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060209/1139504030 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060212/1139726021 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060227/1141064073 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060306/1141627016 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060306/1141675462 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060313/1142223339 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060416/1145158222 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061107/1162862295 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061130/1164899318 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061207/1165468536 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061207/1165500507 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070128/1169989586 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070130/1170131794 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070202/1170441629 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070204/1170611496 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070415/1176609189 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070415/1176614680 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070624/1182702293 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070701/1183262085 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070702/1183341499 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070704/1183564169 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070721/1185040301 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070811/1186807194 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080117/1200593641 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080219/1203440787 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080407/1207591421 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080411/1207900427 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080616/1213547154 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080904/1220538100 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090107/1231303330 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090108/1231386781 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090109/1231531269 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090111/1231697318 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090210/1234271618 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090322/1237741323 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090722/1248240487 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090914/1252945813 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090919/1253336095 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091128/1259384146 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091205/1260031366 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091213/1260686440 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100420/1271785873 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100816/1281992231 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100817/1282044428 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101106/1289051650 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101109/1289281535 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101113/1289668226 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101123/1290485341 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101124/1290623454 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101213/1292243637 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101220/1292861075 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110609/1307650973 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110814/1313322168 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110904/1315163207

*2:http://blog.tatsuru.com/2011/10/18_1255.php

*3:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091117/1258424994

*4:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20071012/1192195684

*5:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110609/1307650973

*6:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061030/1162207177 また、力道山については森達也『悪役レスラーは笑う』をマークしておく。See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070531/1180617700

*7:共産党及びそこから派生した党派の「反米」については、中国や朝鮮半島を含む東亜細亜全体という文脈において考える必要があるだろう。

*8:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110615/1308109789 だからこそ、岸信介退陣という取り敢えずの戦果が得られた後、急速に運動は萎んでしまった。

*9:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070618/1182095918 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070624/1182653188 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070711/1184122203

*10:http://b.hatena.ne.jp/nessko/20111023#bookmark-64359089

「完結出生児数」という言葉

『朝日』の記事;


夫婦の生涯出産数、初めて2人を割る 平均1.96人



 夫婦が生涯にもうける子どもの数が昨年時点で1.96人と、調査を始めた1940年以来、初めて2人を下回った。国立社会保障・人口問題研究所が21日、出生動向基本調査(夫婦調査)の結果を公表した。

 調査は基本的に5年ごとに実施。今回は昨年6月に妻が50歳未満の夫婦9050組に聞き、7847組から有効回答を得た。

 結婚から15〜19年たつ初婚同士の夫婦の最終的な平均出生数は1.96人。前回の2005年調査より0.13人減った。出生数の指標では「合計特殊出生率」も知られるが、こちらは未婚を含む女性1人が生涯に産むと想定される子どもの数で、昨年は1.39だった。これに対し、今回の数値は結婚している女性が対象で、「完結出生児数」と呼ばれる。

 子どもがいない夫婦は全体の6.4%(前回5.6%)、1人は15.9%(同11.7%)。0〜1人の夫婦が初めて2割を超えた。

 過去5年間に結婚した初婚同士の夫婦をみると、出会った時の平均年齢は夫が25.6歳(前回25.3歳)、妻が24.3歳(同23.7歳)でともに上昇。結婚までの平均交際期間は4.3年(同3.8年)で、平均初婚年齢も夫が29.8歳(同29.1歳)、妻が28.5歳(同27.4歳)と、晩婚化が進んだ。

 これらのデータは、同研究所が来年初めに公表する人口推計などの基礎になるが、金子隆一・人口動向研究部長は「出生力低下の傾向は織り込み済み」と説明。出生率の将来見通しには大きく影響しないとみられる。

 夫婦が知り合ったきっかけは、「職場や仕事で」と「友人・兄弟姉妹を通じて」が3割ずつで並んだ。結婚を決めたきっかけ(複数回答)は、妻の結婚年齢が25歳以上の夫婦では、「年齢的に適当な時期だと感じた」が5割を超えたが、妻が25歳未満の夫婦では「子どもができた」(いわゆる「できちゃった婚」)が5割を占めた。

 一方、「理想の子どもの数」は2.42人だったのに対し、「実際に持つつもりの子どもの数」は2.07人にとどまった。理想の子ども数を持たない理由(複数回答)は、「子育てや教育にお金がかかりすぎる」が6割を占め、若い夫婦ほど、この割合が高くなる傾向がみられた。

 不妊を心配したことがある夫婦は31.1%(前回は25.8%)、実際に不妊の検査や治療を受けたことがある夫婦は16.4%(同13.4%)にのぼり、いずれも前回より増えた。(稲垣大志郎)
http://www.asahi.com/edu/kosodate/news/TKY201110210129.html

Sybil或いは女優になれなかった女

Lynn Neary “Real 'Sybil' Admits Multiple Personalities Were Fake” http://www.npr.org/2011/10/20/141514464/real-sybil-admits-multiple-personalities-were-fake


Debbie Nathan Sybil Exposedという本の紹介。1973年にSybilという本がSybilという多重人格女性の実話という触れ込みで刊行され、ベストセラーとなるとともに、この本をきっかけとして「多重人格障害(multiple personality disorder)」(現在謂うところの「同一性乖離障害(dissociative identity disorder)」)の報告例は10倍以上も増えた。しかし、Nathanの調査によると、Sybilの多重人格は「嘘」であった。Shirley Mason(Sybilの本名)は精神科医Connie Wilburのセラピーを受けていたが、(彼女に疎遠にされていると感じていために)、彼女が多重人格障害に興味を持っていることを知り、彼女の気を引くために多重人格を装った。彼女の演技を信じてしまったConnie WilburはRheta Schreiberというライターとともに Shirley Masonへのインタヴューに基づいた本を企画した。Nathanによると、Rheta Schreiberは途中で Shirley Masonの語りが真実ではないことに気づいていたし、 Shirley MasonもConnie Wilburに自分が嘘をついていたことを告白している。しかし、本は実話として書かれ、出版されてしまった。Nathanによれば、それは何よりも「出版契約」が存在していたからである。ネタはガセでした、出版止めますとは今更言えないというわけだ。ここでは、ジャーナリストの取材倫理或いは社会科学者(人文学者)の調査倫理が問われているとも言える。インフォーマントの語りが嘘だと気づいたときにどう振る舞うべきか。
ただ、上の記事では言及されていない事柄に興味を持った。様々な人格を装うことがそもそもConnie Wilburの気を引くためであったとしても、具体的にどのような人格を現出させるかということはSybilの完全な独創ではなくConnie Wilburの関与があったのではないか。つまり、Sybilの多重人格は共同で構成・構築されたのではないか。レインが『自己と他者』で論じていたように、私たちの人格の呈示は重要な他者のリクエストを読み取ることによってなされる。その結果、私は他者が「射影(project)」した〈わたし〉を呈示することになる。マザコンの男が恋人に母親の面影を「射影」すれば、彼女は何時の間にか実際に母親のように振る舞ってしまうことになる。Connie WilburはSybilの演技にただただ受動的に魅せられていただけでなく、意識していたにせよしていなかったにせよ、言葉や身振りや表情で自らのリクエストをSybilに伝えて、Sybilはそれに応答していたのではないか。しかし、それ自体は必ずしも異常とはいえないだろう。私たちの(言語的・非言語的)自己呈示は常に/既に何か(誰か)に触発されたもの(motivated)、何か(誰か)に応答するもの(responding)としてある。その何か(誰か)が違えば呈示される自己も違ってくる。上で、調査倫理云々と言ったが、事実関係が食い違うということはともかくとして、事実の解釈と見なされる事柄について、インフォーマントがジャーナリストや研究者の立場等々を察知し、或いはそれに迎合して、答えるということは調査(取材)の現場ではかなり頻繁に起こっているのではないか。迎合というとネガティヴに聞こえるけど、侯孝賢北野武といった映画作家がそこらのレポーターの質問に答えるのと、(例えば)蓮實重彦の質問に答えるのとでは、全く違う答え方をするだろうというのは寧ろわかりやすいのではないか。また別の意味でも、多重人格を装うということは異常とはいえないだろう。端的に言って演技とはそういうものだとも言えるのだが、違う(フィクショナルな)自己を呈示する欲望はSMを初めとするプレイと称される性行為を基礎付けるものであり、少なからぬ人が所謂second lifeとして実践しているところのものだろう。ところで、現実のShirley Masonは自らもその構築に参加したフィクショナルな自己に開き直ることができず、TVドラマ化もされて固定してしまった自己像から逃げるように、1998年に死去するまでひっそりと暮らしていたという。

自己と他者

自己と他者

『シビル』って、日本では早川書房から出ていたのではなかったか。読んだことはないけれど、そのけっこうどぎつかった惹句は記憶に残っている。日本でどれほど売れたのかもわからない。何れにせよ、1970年代の日本で「多重人格」が問題になっていたという記憶はないのだ。というか、当時話題になっていたのは「モラトリアム」(小此木啓吾*1であって、単数のアイデンティティの定立さえ難儀なのに複数の定立なんてとてもとても、という感じだったのだろうか。その後、70年代的なアイデンティティ言説への反発として、単一のアイデンティティなんかに拘るんじゃねぇよという仕方で、ニーチェドゥルーズ的な文脈で(ミル・プラトーミル・マスカラス)「多重人格」が語られるといことはあったが(例えば浅田彰『構造と力』)、「多重人格」が日本の言説シーンで目立ってくるのは「ビリー・ミリガン」がブレイクした1990年代以降ということになるか。香山リカが「抑圧」から「乖離」へというようなことを言っていたか(『〈じぶん〉を愛するということ 』)。
モラトリアム人間の時代 (中公叢書)

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構造と力―記号論を超えて

構造と力―記号論を超えて

<じぶん>を愛するということ (講談社現代新書)

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