Arbeit macht frei消える

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091218/1261112700で参照したhttp://plaza.rakuten.co.jp/kngti/diary/200912030000/に、アウシュヴィッツ強制収容所正門に掲げられArbeit macht freiというサインが言及されている。
さて、今NYTのサイトで新しいニュースをチェックしていたら、そのアウシュヴィッツ正門のサインが何者かによって盗まれてしまったという。地元警察関係者の話によると、” it was taken between 3:30 a.m. and 5 a.m. Friday”


JUDY DEMPSEY “Sign Over Auschwitz Gate Is Stolen” http://www.nytimes.com/2009/12/19/world/europe/19poland.html


政治的な意図があったのかなかったのか。でも、売るに売れないだろうね。溶かして金属として売るとしたら、盗むための労力(コスト)と比較して、あまりに割に合わないだろう。Arbeit macht frei、今頃何処に?

減っているのに増えている

JOHN SCHWARTZ “Death Sentences Dropped, but Executions Rose in ’09” http://www.nytimes.com/2009/12/18/us/18death.html


Death Penalty Information Center*1の報告によれば、2009年の米国における死刑判決は106件で、7年連続の減少。ピークだった1994年の328件と比べると、略3分の1。死刑判決の減少が特に顕著なのはテクサス州で、1994年の34件に対して、9件。その一方で、死刑判決が減っているにも拘わらず、死刑執行は微増している。2007年は42件、2008年は38件、2009年は42件。オハイオ州立大学のDouglas A. Bermanによれば、2009年が多いというより、2008年が少ないということになる。注射による死刑執行という新技術の合法性を巡って、2007年末から数か月間、連邦最高裁の決定が出るまでの間、死刑執行の「モラトリアム」があった。死刑判決の減少については、(テクサスのように)仮出所の可能性のない終身刑の導入、殺人発生率の減少、それから予算の問題が挙げられている。最後の予算の問題だが、2009年にニュー・メクシコ州が死刑を廃止した理由は財政問題で、”the high cost of death penalty appeals”が問題なのだということだが、これは一審で死刑判決が出れば被告側は必ず控訴し、州にとってはその控訴審を維持する費用はバカにならないが、死刑を廃止すれば被告側の控訴も減るので、その方が州財政にとっては得、ということなのだろうか。
米国の死刑については、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061231/1167543391でも言及した。


MARTIN FACKLER “At Japanese Cliffs, a Campaign to Combat Suicide” http://www.nytimes.com/2009/12/18/world/asia/18japan.html


自殺の名所となった福井県東尋坊で自殺防止に取り組む元警察官の話。

ニコラス・クザーヌスとパースペクティヴ性(メモ)

承前*1

池田信夫のテクスト*2にいちゃんもんをつけながら、新田義弘先生が「パースペクティヴ性」の問題をニコラス・クザーヌスまで遡りながら、論じていらしたよなということを思い出した。但し、その書誌学的情報までは思い出せない。新田先生の『哲学の歴史』を捲っていたら、ニコラス・クザーヌスと「パースペクティヴ性」についての言及が見つかったので、以下にメモ。
話の前提として、ニコラス・クザーヌスにおいて「神」は「真の無限」であり、「不可視」であり、人間の知性によって理解することはできない。「世界」は「神の像(写し)」、「可視的になった神(Deus sensibilis)」であり、「縮減された無限性」を持ち、知性による理解の対象となる。また、「有限的にして無限的」(pp.59-61)。


しかし人間の認識が有限的無限性としての世界の認識のなかにとどまるかぎりは、この認識は漸進的であり、未完結的なプロセスを描いていく。人間の眼には世界の全体はけっして一挙に与えられないのである。このような終項の無い未完結的無限性は不定無限とよばれる。人間における知識の形成は、一挙にすべてをとらえる神の眼差しとはちがって、もともと人間の視が特定の視点をもっているということに制約されている。およそ人間には物やものごとはつねにある一定の角度から、ある特定のすがたでしか現われてこない。したがって人間が物についていだく知識も、原理的には一面的であり、断片的である。
ということはなにもバラバラに孤立して物を規定するということではなく、むしろ物はたえず一面的にのみ規定されることによって、かえって全体として物についての規定の連続的な連関が形成されていくのである。その連関をとおして全体を眺めているわけであり、全体をまるごとそっくり、一挙に知るという仕方で眺めているわけではない。全体はつねに一定のアスペクトから眺められた全体なのであり、視点によってその現われ方を変える。このような現われ方、あるいは与えられ方は、パースペクティヴ性とよばれる。われわれは、ルネッサンス絵画において具体的に使用された透視術という技法を識っている。われわれは、ルネッサンス時代の空間の意識をこのパースペクティヴ性に見いだしているが、じつはこの空間の与えられ方の規定は、神学的な背景のもとで登場する数学的な認識の意義と深く関わっている一種の文化的考案物、つまり時代の産物なのである。
ところで視点というものは、他の視点、それも複数の視点を当然予想するものでなければならない。とすれば、同一の事物はそれを見ているそれぞれの視点に、別々の現われ方をする。世界も同様に、それぞれの視点に対して別々の現われ方をするのである。クザーヌスは、神の同一性に対して、世界の同一性は、多性、すなわち差異性のなかにある同一性であるといっている。世界それ自体というものは存在しないのである。世界は一つであるにせよ、個々のもの、個物において相違する仕方で与えられているのである。
このことは今日の他者問題に、さらには同一性と差異性の問題系に直接に関わってくることであり、こうしたきわめて現代的、あまりに現代的な問題がクザーヌスの思想のなかに登場している。(pp.62-63)
哲学の歴史 (講談社現代新書)

哲学の歴史 (講談社現代新書)

平壌から愛を込めて?

新華社「朝鮮整頓“外国”髪型 厳禁穿緊身袴喇叭袴」『東方早報』2009年12月17日


短い記事なので、全文書き出してみる;


朝鮮上月起開展一項運動、旨在整頓不整潔現象和民衆留“外国”髪型的風気。
朝鮮《労働新聞》報上上月説、男性応留短髪、女性応束起長髪、“保持頭髪整潔、朴素……対於朝鮮樹立健康生活方式的精神風貌非常重要。”
韓国一家民間団体16日説、在朝鮮最高領導人金正日要求下、朝鮮青年同盟中央委員会発起這一運動。
簡報援引朝鮮青年同盟中央委員会官員的話説、金正日看到一名女性售貨員的“外国”髪型、提出反対、“她真是我們朝鮮婦女嗎? 為甚麽她放棄我們自己的伝統美、選択模倣外国資本主義壊習慣”?
簡報説、平壌等城市的青年同盟中央委員会官員正採取措施整頓学生和年軽女性的髪型。
此外、朝鮮発起的運動還要求、女性不応穿不及膝的帬子、緊身袴、喇叭袴以及任何顕露身材曲線的服装。
最後の部分は曾野綾子女士へのクリスマス・プレゼント?
「“外国”髪型」って具体的にどういうヘア・スタイル?

白い粉

Denis Campbell “Anthrax alert as heroin addict dies in Glasgow” http://www.guardian.co.uk/world/2009/dec/17/anthrax-death-heroin-glasgow


これは怖い!
グラスゴーにて、ヘロイン・ユーザーがヘロインに混じった炭疽菌を摂取して死亡。

余白に幾つか

新書498闘うレヴィ=ストロース (平凡社新書)

新書498闘うレヴィ=ストロース (平凡社新書)

http://d.hatena.ne.jp/matsuiism/20091216/p1
http://plaza.rakuten.co.jp/kngti/diary/200912030000/


渡辺公三『闘うレヴィ=ストロース*1を巡って。とはいっても、私は買っただけで、まだ読んでいない。ということで、上の2つの記事の余白に落書きをしてみる。
少年時代、社会主義活動家時代のレヴィ=ストロースについては、桜井哲夫氏の本だと、『「戦間期」の思想家たち レヴィ=ストロースブルトンバタイユ』が詳しいということ*2

冥王まさ子の小説『天馬空を行く』の後書きにポール・ドゥ・マンの葬式のことが触れられていて、彼が「無神論者」だったということを知ったということがあった。
天馬空(クウ)を行く (新鋭書下ろし作品)

天馬空(クウ)を行く (新鋭書下ろし作品)

Mary and Joseph

Toni O'Loughlin “Semi-nude Mary and Joseph spark outrage in New Zealandhttp://www.guardian.co.uk/world/2009/dec/17/nude-mary-joseph-new-zealand


ニュージーランドに裸でベッド・インするマリアとヨゼフを描いた看板が登場したが、これを巡って、ニュージーランド世論が割れている。この看板に対する賛否はちょうど半々。カトリックや保守派団体Family Firstが抗議の声を上げている。ところで、この看板を出したのは反基督教団体や反クリスマス分子ではなく、アングリカンのSt Matthew-in-the-City church。Archdeacon Glynn Cardy*1によれば、これはクリスマスの物語への関心を喚起するためのものであり、また「基督生誕に関する原理主義的解釈に挑戦することを意図している」ともいう――


What we're trying to do is to get people to think more about what Christmas is all about. Is it about a spiritual male God sending down sperm so a child would be born, or is it about the power of love in our midst as seen in Jesus?

*1:Archdeaconはアングリカン用語として、「大執事」と訳される。でもこれだと宗教性が伝わらないと考えるのは私だけか。カトリック用語としては「助祭長」。

『戦闘揺滾』『倫敦呼声』

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091205/1259986704のコメント欄でクラッシュに言及したのと関係あるのかないのか、クラッシュのLondon CallingCombat Rockの2枚セットを見つけたので、買ってしまう。

Combat Rock

Combat Rock

London Calling

London Calling

クラッシュについてはhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060407/1144425086も。

また、北島『藍房子』*1を取り敢えず読了。