横尾さんについて(続)

承前*1

kechackさん*2、わざわざありがとうございました。
さて、Livedoor Newsにこんなのがあった;


 ヤクザの凶弾に倒れた長崎市長伊藤一長氏の遺志を継いで市長選に立候補した横尾誠氏(40)に注目が集まっている。 大阪府出身の横尾氏は91年に同志社大を卒業後、西日本新聞に入社。長崎総局、社会部、北九州支局などを経て、今年3月から東京支社報道部で首相官邸キャップを務める敏腕記者だ。

 地元長崎の民放記者だった市長の長女・優子さん(36)とは初任地の長崎総局時代に出会い、95年12月に結婚。現在は2児の父でもある。

「第一報が入った時、横尾氏は官邸で取材中でした。すでに長崎行きの直行便はなく、北九州まで飛行機で行きタクシーに乗り換えて長崎大病院に到着したのは午前2時でした。奇縁なのか、亡くなった伊藤市長が1期目(95年)に当選した時の西日本新聞の原稿は横尾記者が取材して書いたものです」(官邸事情通)

 横尾氏は市長の娘婿に収まったものの政治家志望ではなかった。

「普段は無精ひげを生やし、気さくで飾らない人柄。スナックで酒も飲めばカラオケも歌う。社会部が長く、記者交換制度がある韓国の釜山日報社で派遣記者として勤務したこともあり朝鮮語もペラペラ。一長氏の娘婿だから、自分から政治の話題は遠ざけていた節すらありました」(事情通)
http://news.livedoor.com/article/detail/3131128/

ところで、「政治家志望」の人というのは普通「スナックで酒も飲めばカラオケも歌う」ということをしないものなのか。

谷間の世代か

Mixiに「日記キーワードランキング」*1というのがあって、昨日か一昨日か「尾崎豊」が上位にランキングされていて、あれって思ったのだった。命日だったんだ。それも15回忌。
http://d.hatena.ne.jp/eirene/20070425/p1を通じて、『朝日』の「没後15年尾崎はどこへ 消えた反抗心」*2という記事を知った。それは最近の若い衆が「尾崎豊」にあまり共感しなくなったというもの。香山リカのコメントをフィーチャーした部分を引用してみると、


 「学生の反応は年を追うごとに悪くなっている」と精神科医香山リカさん(46)も言う。00年ごろから大学の授業で「卒業」などを聴かせている。当初から「この怒りがどこから来ているか分からない」という意見はあったが、最近はきっぱりと否定的な感想が目立つという。

 「周りに迷惑をかけるのは間違い」「大人だって子供のことを思っているのに反発するのはおかしい」。体制や大人に反抗するのはいかがなものかという声だ。香山さんは「これまで成長のプロセスにおける仮想敵だったはずの親や先生の善意を屈託なく信じている」と首をかしげる

 どんな価値観の変化があるのか。香山さんは「反発したり、知りすぎたりすると損をする。損得勘定が判断の基準になっている」と分析する。他者や社会との関係で揺れ、傷つく姿を歌ってきた尾崎の歌とは対照的な考え方。彼の実人生に対しては、こんな感想さえあった。「容姿にも才能にも恵まれているのに変に反抗して、早く死んだのはバカだ」

 学校や親への反抗、自分という存在についての不安。尾崎が歌ってきたのは、若者にとって普遍と思われるテーマだったはずなのに、嫌悪にも似た反感が生じている。

「反抗」というのがリアリティを失っているのだという。以前に書いたかも知れないが、〈若者の保守化〉というような言説は少なくとも1970年代から流通し続けていたのであり、こういうのを額面通りに信じてはいけないのかも知れない。また、「学校や親への反抗」とか「自分という存在についての不安」というのを「若者」というようなライフ・ステージに結びつけるのは如何なものか。それは近代の流儀だということになるのだが、中年だって老人だって「反抗」する筈だし、「自分という存在についての不安」に至ってはどの年齢層にとっても普遍的な課題の筈だ。また、「反抗」が「反抗」でしかなく、しかも「若者」というライフ・ステージに固定されてしまう限り、それは結局、次のステージに回収されてしまう。いい気になって「反抗」していたら、いつまで青臭いことを言っているんだとか早く大人になれという声がどこからともなく聞こえてくるということになる。この記事に出てくる「若者」の声に関してはたしかに共感できない。しかし、そういう「若者」の「反抗」の欠如に苛立っている(何歳かは知らないけれど、大人であることは間違いない)記者だって、「若者」が本気で「反抗」したりしたら、〈荒れる若者!〉みたいなノリの記事を書くかも知れないし、〈いつまで青臭いことを言っているんだ〉、〈早く大人になれ〉攻撃だって熾烈になるだろう。何よりも、苛立っているなら自分で「反抗」しろよ、自分で「窓ガラス」を割れよということだ。「夜になっても遊びつづけろ」*3
ところで、尾崎豊に関しては、私などは〈谷間の世代〉という感じがする。自分と同世代では尾崎豊に対して、ポジティヴにせよネガティヴにせよ、あまり関心を持っている人というのは出会ったことがないのだ。1980年代の後半だったと思うが、恩師のH先生が突然尾崎豊ってどう思う?と訊ねたことがあった。私がどう答えたのかは自分でも記憶がないのだが、H先生は尾崎っていうのが歌っている内容は俺たち全共闘世代にとっては既に決着がついているようなものなんだと言った。その時(覚醒剤で逮捕される前だったと思う)、私は勿論尾崎豊の名前は知っていたが、ブルース・スプリングスティーンのフォロワーのひとりだというくらいの認識しかなかった*4。その後、尾崎は斎藤由貴と結婚し(不倫関係だったんだ、ああ勘違い!)、そして死を迎えるわけだが、その当時感じたのは、H先生の言葉に反して、尾崎豊に関心を寄せているのは、その頃ティーンエイジャーの子どもを持っていた団塊の世代前後の人たちとその子どもたちだったということだ。尾崎を聴くことで子どもたちと共有するものができましたというような声が多かったような気がした。ティーンエイジャーでもその親の世代でもなかった私たちはすっぽり抜けてしまっていたわけだ。また、1990年代に入ってからの〈尾崎ブーム〉は1980年代的なもの(とステレオタイプ的にされたもの)に対するバックラッシュの側面もあったということに気づく。1980年代的なもの、それは浮ついた相対主義山下悦子の『尾崎豊の魂―輝きと苦悩の軌跡』
尾崎豊の魂―輝きと苦悩の軌跡 (PHP文庫)

尾崎豊の魂―輝きと苦悩の軌跡 (PHP文庫)

は1995年に出たが、まさにそのような趣の本だった。そこで音楽における1980年代的なものの代表とされているのは桑田佳祐だった。そのような前提の下で、〈浪漫主義者〉尾崎豊が仕立てられてゆく。オウム真理教も1980年代的なものに対するバックラッシュの一形態という側面があるだろうが、オウムは自爆し、それと同時に1980年代的な〈浮ついた相対主義〉も吊し上げられ、小林よしのりとかがヒーローになる時代がやってくるというわけだ。上の記事の香山リカだって、1980年代は『フールズ・メイト』な人だったわけだから、尾崎豊には無関心だったに違いないと思うのだが、どうなのだろうか。
時の流れといえば、『読売』の記事で大貫妙子さんの新譜が出たことを知ったのだが*5、その記事に添えられた写真を見て、時間というのは残酷に過ぎゆくものなのだなとつくづく思ってしまったのだ。

山崎正和 on 道徳教育

『毎日』の記事;


中教審会長:「道徳教育と歴史教育は不要」

 中央教育審議会文部科学相の諮問機関)の山崎正和会長は26日、東京都千代田区の日本記者クラブで講演と記者会見を行い、個人的な見解と強調した上で、小中学校での道徳教育と歴史教育は不必要との考えを示した。さらに、政府の教育再生会議論議している道徳の教科への格上げにも否定的な見解を述べた。

 山崎会長は道徳教育について、賛否の割れる妊娠中絶の是非などを例示して「『人のものを盗んではならない』くらいは教えられるが、倫理の根底に届く事柄は学校制度(で教えること)になじまない」と指摘。「代わりに提案しているのは、順法精神を教えること。『国の取り決め』として教えれば良い」と持論を展開した。

 現在行われている道徳教育の必要性を問われると「現在の道徳教育もいらないと思う。道徳は教科で教えることではなくて、教師が身をもって教えること。親も含めて大人が教えることだ」と述べた。

 歴史教育についても、稲作農業が日本で始まった時期が変遷していることなどを指摘し「歴史教育もやめるべきだ」と述べた。【高山純二】

毎日新聞 2007年4月26日 20時29分
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/edu/news/20070427k0000m010107000c.html

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070418/1176911089とも関連するが、「道徳教育」に関しては正論であるといえよう。「歴史教育」について言及している部分については、もう少し情報が欲しい。この記事の書き方はあまりに唐突だ。
山崎氏は現代日本における代表的な保守主義の思想家であるといえるが、山崎氏が凡庸な右翼(左翼も?)と隔たっているのは、氏が旧満洲国のコスモポリタンな雰囲気の中で初等・中等教育を受けたこととも関連しているか。80年代に出された『柔らかい個人主義の誕生』は現在でも真剣に読まれるべき価値を有しているのではないか。
柔らかい個人主義の誕生―消費社会の美学 (中公文庫)

柔らかい個人主義の誕生―消費社会の美学 (中公文庫)

また、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070327/1175000516で触れた山崎氏の「無責任男」への言及は『おんりい・いえすたでい’60s』。「道徳」に関連して、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070426/1177530648絡みで、

「すべての人は救われるべきである」という倫理的命題は肯定しよう。しかし、「人はすべての人を救わなければならない」などという命題を振り回すのは倫理的暴力であろう。これらの言説は、自省の身振りで無理な命題を立ててしまっているのである。人は神様ではない。

まずは不可能を受け入れ、ちゃんと絶望して2つの命題の違いを認識すべきだ。そうでなければ、前者を軽んじることにもなりかねない。


倫理は磨くモノであって、振り回すモノではない。危ないからね。
http://d.hatena.ne.jp/z0rac/20070426/1177576498

神が他界に隠居してしまったために、個人の双肩に全世界の重量がのしかかるのが近代であるともいえる。越後獅子の親方だって、そんな無体なことはしないのだが。

小野リサの言葉

承前*1

ここ数日急ぎの仕事が立て込んで、「音速青年」のライヴ*2を見逃してしまった。しかし、来週皐月に入れば小野リサが上海に登場する。
さて、Kelly PriceBossa Nova in the Park”(CityWeekend April 19/May 9 2007, E12.)という記事では、「ボサ・ノヴァ」を”Brazil’s answer to jazz”とした上で、”小野リサを”bossa nova’s answer to Norah Jones”としている。また、”Growing up in countries half-way around the globe from my home country[Japan], I was able to see the world from many different angles”という小野リサの言葉が紹介されている。また、「ボサ・ノヴァ」についての、


Bossa nova comes from the crowded areas of Rio de Janeiro and Ipanema. If you don’t sing softly, you might disturb your neighbors. It’s a music that you can enjoy quietly in urban areas.
という発言も。

デュラスのこと、つらつら

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070422/1177265280マルグリット・デュラスの『インディア・ソング』に言及したら、「あんとに庵」様のノスタルジアを喚起してしまったよう*1
ところで、私は『インディア・ソング』よりも『ヴェネツィア時代の彼女の名前』の方を先に観たのだった。『インディア・ソング』の「音のフィルム」をそのままに、巴里郊外のロスチャイルド仏蘭西語読みだから、ロートシルドか)邸の映像に置き換えたもの。これは極めつけの〈デュラスの映画〉といってもいいのだろう。ただ、amazon.co.jpで探したら、DVDは出ていないようだ。デュラスの映画で最初に観たのは、これもDVDは見つからなかった『アガタ』*2。それ以来、〈シーズン・オフのリゾート〉という設定にある種フェティシズム的な感情を持ってはいる。1980年代の半ばに明治学院大学で観た。明治学院に「アンリ・ラングロワ集団」というサークルがあって(今もあるのか)、そこが上映会を開いたのだった。上映後には当時明学の教授だった清水徹氏の講演があった。話の内容で今も覚えているのは、『アガタ』がローベルト・ムジールの『特性のない男』、さらにはシャルル・フーリエを踏まえているということ、また清水氏は『愛人』

愛人 ラマン (河出文庫)

愛人 ラマン (河出文庫)

の訳者でもあったが、『愛人』にも言及しつつ、デュラスにおいてはdeparterという動詞が重要であること、またデュラスの使うmer(海)という言葉については仏蘭西語においてmerとmere(母)の発音が同じであることに注意すべきだということ。
また、 Hommage a Durasというリチャード・ジョブソン、ヴァージニア・アストレイ、(ドゥルッティ・コラムの)ヴィニ・ライリーが参加したコンピレーション・アルバムも思い出してしまった。ここで、ヴァージニア・アストレイが『インディア・ソング』のテーマを弾いている。
さてさて、カトリックプロテスタントという話の脈絡だったが、「うさこ」さんがガブリエル・アクセル監督の『バベットの晩餐会』のレヴューを書いている*3カトリックプロテスタントの差異を直感的に掴むにはもってこいの映画だとは思う。
バベットの晩餐会 [DVD]

バベットの晩餐会 [DVD]

ただ、カレン・ブリクセンの原作小説が映画の上映に合わせて、(たしか中沢新一のエッセイ付きで)刊行されて、買ったのだが、どういうわけか(20年くらい経つのに)まだ読んでいない。Orz

*1:http://d.hatena.ne.jp/antonian/20070423/1177303904

*2:デュラスが脚本を書いたということなら、『24時間の情事』を先に観ているが。

*3:http://blog.goo.ne.jp/fassarl/e/a0b083a10860496f6fbfd4fdc07f0fc8