Mixi

Mixiが2周年を迎えるとかで、会員数も300万人を突破したという*1。私も会員であるので、素直に慶賀の意を表したい。Mixiの性格については、既に中野昌宏氏が論じている*2。また、「コミュニティ」としてのMixiを問うというような議論もある*3。さらに、atutakeさんは、ビジネスとしてのMixiのディレンマについて、


もちろん入っていて損はないし、何かのときには便利。だから、まあやめることもないか、というのが今のところの正直なmixi観だ。ということは、会員数の増加に伴って、もし同じような考え方の人が増えてくるとmixiにとっては、ちょっと困ったことになる。アクティブユーザーが増えないとページビューを稼ぐことができない。すなわち広告媒体としての価値が高くならない。イコール収益が増えない。にも関わらず(sic.)会員が増えるのでシステムコストがかかる。結果的に収支状況悪化みたいなサイクルになる。
と述べている*4
考えてみると、MixiというかSNSというのは、昔の〈パソ通〉時代への先祖帰りという側面を持つ。atutakeさんも、「ここで少し歴史を振り返ってみれば、会員制とは要するにセンターサーバーで管理していたパソ通と基本的な構造は同じだと思う」と書いている。1995年頃、ようやくインターネットが大衆化し始めた頃によくいわれた言説で、〈ニフティのような閉域から開かれた空間としてのインターネットへ〉というノリのものがあった。そのロジックからすれば、閉域への後戻りである。或いは、パブリックからプライヴェートへ。これは決して批判的に言っているのではない。世の中には、万人に共有されるべきものとごく少数の人にのみ共有してもらいたいものがあるのだ。特に、私たちは皆、社会関係のしがらみの中にいる。そのしがらみからの避難を、皆が少しずつ自分のプライヴァシーをさらけ出すことによって責任を取るという仕方で実現しているといえるだろう。オフラインの社会では、社会関係のしがらみからの一時的避難所として、喫煙コーナーとか給湯室がある。しかし、それはあまりにもせせこましいので、せめてレストランの個室のようなものがほしい。Mixiの、特に個人の日記の空間はそのような機能を果たしているといえる。
Mixiのもう一つの目玉は「コミュニティ」。これは右から左まで、エロから国際政治まで、興味あるトピック(「トッピク」*5?)毎に集まって、書き込みをする掲示板なのだが、これは一方では、そんなの今までのように(公共的に晒された)掲示板でやればいいのにとも思ってしまう。また、クローズドに行いたいなら、MLもある。勿論、匿名的な荒らしの攻撃による荒廃を「皆が少しずつ自分のプライヴァシーをさらけ出すことによって責任を取る」という仕方で防止するという意味はあるのだとは思う。ここで問題なのは、Mixiで「少しずつ」「さらけ出す」プライヴァシーには、個々人の〈関心(interest)〉があるということだ。実はこの〈関心(interest)〉こそが「さらけ出」される最大のプライヴァシーであるといえる。実際、多くの人は本名を明かしていないし、プロフィール欄の項目は嘘をつくことが可能だ。しかし、私はこういうことに興味があってこういうコミュニティに参加しているということに関しては嘘がつけない。これが問題だと思う人もいるんじゃないだろうか。仮に私の自我が私のインタレストの集合だとしてみよう(乱暴だけど)。私の自我全体=全インタレストが一挙にさらけ出されることは通常はない。つまり、その都度のインタレストによって、私が関与する社会集団、私がコミュニケートする他者は違っており、そこでは共有されたインタレストにとってレリヴァントな私の部分しかさらけ出されないからだ。それはオフラインでもオンラインでも同じ。職場における私と趣味のサークルにおける私と家庭における私とでは、それぞれ異なった他者に対して異なった私がさらけ出されていることになる。インターネットのコミュニケーションで、この異なった場における〈小出しの自己開示〉に最も適合しているのはMLだろう。音楽関係のMLでの私と哲学関係のMLでの私と政治関係のMLにおける私は、それぞれ関わり合う他者も違うし、さらけ出される自己も違う。但し、これは私が場面毎に自己を使い分けているというのとは違う。インタレストによって自ずとそうなるのだ。しかし、Mixiでは、参加しているコミュニティの表示という仕方で私のインタレストが顕わになってしまう。インタレストには特定の他者には隠しておきたいインタレストもある。例えば、私がSMに興味を持っているとか。SNSというのはトータル・インスティチューションと化してしまう可能性もあるということだ。
これから述べることは、上とは矛盾するかも知れない。コミュニティを中心とするMixiの魅力の一つは、日々蓄積され続けている議論や情報の集積だろう。今でも検索機能はあるけれども、これを(例えば「はてな」のキー・ワードみたいに)一括して整理するということはできないだろうか。(全体に公開されている限りでの)個人の日記も含めて。そうすれば、アーカイヴとしての使い勝手は向上すると思うのだが。

誰を恨むべきなのか

朝日新聞』の記事なり;


松本被告の次男の入学拒否 埼玉の私立中

2006年03月02日20時13分

 オウム真理教元代表松本智津夫麻原彰晃)被告(51)=一審死刑、控訴中=の次男が私立中学を受験して合格したが、学校側が入学を拒否していたことが2日分かった。

 入学を拒否したのは埼玉県春日部市春日部共栄中学校。次男の代理人の弁護士によると、合格発表は1月18日。入学金を支払った後の2月7日、学校側から電話で「松本被告の息子とわかったため、入学を辞退してほしい」と言われたという。

 学校側は2月11日、代理人の弁護士に対し、学校敷地内への次男の立ち入りを禁ずると通告。その後、「2月19日の入学説明会に来なかったから形式的にも入学資格がない。入学金などを返還するため振込先の口座を教えてほしい」と内容証明郵便を送ってきたという。次男の代理人は「仮処分申請や提訴を含めて対応を検討したい」としている。

 松本被告の三女も03年と04年、合格した複数の大学に入学を拒まれた。このうち和光大について、東京地裁は今年2月、「不許可は違法」として損害賠償を命じる判決を出した。三女は別の私立大にも入学を拒否され、学生としての地位保全を求める仮処分を申請。東京地裁がこれを認め、現在はこの大学に通っている。

 〈春日部共栄中の矢口秀樹校長の話〉 中学生は互いに影響しあいながら勉強することが大事。保護者も安心して通わせることを求めている。教団の影響下にないとは言い切れない生徒を入学させれば大きな支障が出る恐れがある。本人に罪はないが、現在の教育環境を守りたい。
http://www.asahi.com/national/update/0302/TKY200603020305.html

先ず疑問なのは、こんなこと、入学願書を出した段階で分かっていたんじゃないの? ということ。また、一旦組織的に決定された〈合格判定〉が覆ったわけだから、やはり〈判定〉に関わった人間の責任というのは(少なくとも組織内の問題として)問われて然るべきなのではないか。ここでコメントを寄せている校長先生だって、〈合格判定〉を組織の教学上のトップとして承認したわけでしょ? また、どのようにして覆ったのかというプロセスも興味深い。
勿論、私立の学校である以上、どのような人を合格させて、どのような人を不合格にするのかというのは、自由だろう。極論すれば、金を余計に払ったから合格させたというのもアリだと思う。問題はそれをこそこそとやっていることだ。ただ、それに対して、〈不正義〉を訴えている人がいる以上、少なくとも説明責任は果たさなければいけないんじゃないだろうか。そうでなければ、麻原やオウム教団が一連の事件について説明責任でさえ果たしていないことと同様の批判を甘受せざるをえないだろう。
校長のコメントだが、「中学生は互いに影響しあいながら勉強することが大事」とその後が論理的に繋がっていませんね。それはともかく、ここでの鍵言葉は「保護者」と「安心」ということになるか。「安心」については、kechackさんいうところの「差別は数学」問題*1とも関係があるわけだが、受験生が集まらなければ学校はやっていけなくなるのだから、リスクは背負いたくないということですか。問題は「保護者」なのだが、日本語の特性によって、これが単数形なのか複数形なのか、それとも集合名詞なのかは定かではない。その「保護者」というのも、(政治家のいう〈国民〉のように)校長がたんに口実として口にしたものなのか、それとも実際に何らかの働きかけをしたのか、全然わからない。もし後者だったら、顔を出して、弁明するなり、校長や学校を擁護するなりすべきだろう。自らの振る舞いが一因となって、一方では〈不正義〉を被ったと主張する人がいて、他方では学校にしても、社会的な批判を浴びたり、訴えられたりする可能性も出てきたからだ。
麻原の次男、今年中学受験ということは、地下鉄サリン事件などのときには殆ど物心がついていなかったということだ。言ってしまえば、戦争中に赤ん坊だった日本人が突然胸ぐらを掴まれて、〈戦争責任〉を取らされるようなものだ*2。いったい誰を恨めばいいのか。愚かな父親か*3。それとも、自らを差別する世間の者どもか。どちらもだろう。この子どもが父親や世間に報復する権利というのは当然ながら認めなければならないだろう。私たちができることといえば、その復讐心が危険な仕方で暴発しないようにと神仏に祈ることくらいだ。
そういえば、出自による差別というのは、所謂〈社会主義社会〉の通弊ではあった。そこでは、ブルジョワや〈人民の敵〉や反党分子の息子/娘というだけで、差別され、進学できなかったりとか、さらには幽閉されたり、挙げ句の果てには殺されたりというのは決して珍しい話ではなかった。
記事を読む限り、学校側の振る舞いというのは高圧的。金を使って円く収めるという古来の美徳は廃れてしまったのだろうか。

*1:http://d.hatena.ne.jp/kechack/20060224/p1 http://d.hatena.ne.jp/kechack/20060220/p2

*2:勿論、戦後に生まれた日本人であっても、菊の御紋のパスポートを持つ以上、応答可能性という意味での責任は有していることはいうまでもない。

*3:父親はすぐに逮捕されてしまって、その後全く娑婆に出るチャンスはないわけだから、殆ど父親には会ったことがないことになる。尤も、会えたとしても、現在父親にまともなコミュニケーション能力はないわけだが。