Voodoo Dolls

 YUAN Qi “Voodoo dolls on sale in city, said to curse enemies, invite love, luck” Shanghai Daily 24 February 2006


私はまだ見たことはないのだが*1、上海の少女の間にvoodoo dollsが流行っているという。泰国南部から輸入されたもので、”They are made from a single string of hemp and they are said to be able to help people put curse on their enemies or bring luck to themselves and friends.”値段は1体40元以上で売られているという。何故、ハイティを中心としたカリブ海で生成したカトリックとアフリカ民俗宗教とのシンクレティズムの呪具が東南亜細亜で作られ、中国に輸入されているのかわからない。注目すべきは、詛いというかblack magic的な要素があるということだろうか。同済大学の心理学者LI Chunbo氏のコメントは当たり障りがないといえば当たり障りがない――”The dolls could be regarded as a new way to relieve the stress of city life, but it is a negative way to deal with stress and not recommended,”というのは。

*1:上の記事で言及されているのは普陀区である。

未来が消えた後に

 内田樹「不快という貨幣」http://blog.tatsuru.com/archives/001572.php
 中野昌宏「若者の静かな憤怒」http://nakano.main.jp/blog/archives/2006/02/post_51.html


それぞれ深く考えさせられるテクストである。
問題は、中野氏が


昔私らが学校へいやいや行ったり,受験勉強をしたりしたときには,「努力は報われる」ということがさかんに言われた。し(sic.),半信半疑であれ,われわれもちょっとは信じていた。で,ちょっとそのとおりになることもあった。よい学校に入れればよい大学に入れ,よい大学に入れればよい会社に入れ,よい会社に入れればよい収入が得られる時代だった。おおむね。こういう時代には,「いまの苦労は,将来の自分のための投資」と考えられていた。
と書いているような、未来指向のplausibilityが低下したことである。現在の苦労、若しくは現在に於ける欲望の充足の断念が未来に於いて利子つきで償還されない限り、誰が現在に於いて面白くもない勉強や労働をするというのだろう。だから、ある前提の下では、ポスト高度経済成長時代に於いて、勉学意欲や労働意欲が低下するというのは理の当然である。「ある前提」と書いた。これは目的合理性だけを考慮して価値合理性を考慮しないこと。或いは、人間の行為を手段的行為に還元し、自足的な行為を考慮に入れないことである。但し、一時私自身も入れ込んでいたことがあったが、所謂消費社会を巡る言説では、目的合理性や手段的行為が退いた後には、価値合理性や自足的行為のために場所が空けられる筈だった。これは時間論的に言えば、たかだか未来のための手段に貶められていた現在の解放、現在の留保なき肯定であるべきだった。しかし、現在の留保なき肯定なんてあるのだろうか。どうもそのようには思えない。バブル期と較べて、寧ろ反動的に未来指向というのは強化されているのではないか。〈自分探し〉という空虚な未来指向であれ、時間的スパンを思い切り短期化したせせこましい目的合理性であれ。
それを考えるために、内田氏のテクストはヒントを与えてくれる。但し、内田氏は「なぜ若者たちは学びから、労働から逃走するのか」というが、「学び」からの「逃走」はともかく「労働」からの「逃走」は事実としては怪しいということは既に実証されている。寧ろ私の疑問は何故「労働」からもっと「逃走」しないのかということである。とはいえ、内田氏のいう「不快という貨幣」というアイディアを借用すれば、多くの人が面白くもなく、ペイも悪く、招来の保証も不確かな「労働」から「逃走」せずに留まっているのかということを説明できるような気がする。日々「面白くもなく、ペイも悪く、招来の保証も不確かな「労働」」に耐えることは、その人たちにとって、「不快という貨幣」を貯蓄することなのだ。そう考えると納得はできる。ただ、貨幣というのは支払うためにある。買い物もできない貨幣をふつうは貯めようとは思わない。蘇聯が滅びたのだって、人々が碌な買い物もできない〈ルーブル〉に愛想を尽かしたという側面はある。「不快という貨幣」は支払うことはできるのだろうか。それでどんな買い物ができるというのだろうか。その意味では、貨幣の蓄積自体が自己目的化されている、つまり自足的な行為になっているともいえる。でも、消費もされず、また投資もされないで、ひたすら蓄積されていくだけの貨幣ってなんなんだろうか。中野氏が

「希望格差」じゃないけれど,「いま苦労して,その苦労が何になる」という意識が,彼らの心の奥底にはあるんじゃないだろうか。

言い換えれば,苦労ばかりを強いられている(と少なくとも主観的に感じている)人々は,「いまの苦労」を「いま」取り返すべき,債権者の位置に立っている(つもりな)のではないか。

なるほど。だからヤクザっぽくなってくるのね(殴)。フランスでの暴動も思い出されるし。希望がないから自棄(やけ)のヤンパチなのか。


かつては将来償還できるはずの「投資」であった「苦役」が,いまや返してもらえるかどうか不明な「苦役」となった。いつ返してくれるんや。はよ返さんかい。いますぐ返せゴルァ。そういうオーラを彼らがるる放出していたとしても,彼らの非にあたるのかどうか。

「将来の展望を,現在の努力」へと織り込むという,時間を「先取り」する思考のサイクル――むしろ「意志」――が消えてしまって,「現在の債務を,いますぐ取り立てる(しかない)」という刹那主義へ。

これって言い換えれば,「時間」が止まったということではないか。

未来がない,ということはそういうことである。

ということはこれは「終末」?

と書いていることの前提には、もしかしてこの「不快という貨幣」の消費不可能性があるのではないか。とはいっても、即時の払い戻しを要求してキレるのは一部であって、大方はマゾヒスティックに「不快という貨幣」の蓄積に励んでいるのだろう。
「不快という貨幣」がどうせ使えないもの、支払い能力がないものだったら、そんなものは捨ててしまえばいいのである。「未来がない」とはいっても、そこには現在が開かれる筈である。
かつて『逃走論』という書物が出版されたときよりも時代が後退していることは確かだ。嗚呼。

書くこと、そして〈脳内会話〉

 書くこと、或いは書けないことが話題になっている*1。或いは書くことと読むことの関係。後者は興味深く且つ重要なのだけれど、今は触れない。ゆみぞうさん曰く、


たぶん、私が考えている「書けない」のレベルは誰よりも低いんじゃないかな。
私は小論文の講師をしていて、対象となる学生は短大生・大学生・社会人なんだけど(高校生ではない)、基礎レベルのクラスだから「書くのは苦手です!」という人たちがくる。どれくらい書けないかというと…

例題)携帯電話の功罪についてあなたの意見を自由に書きなさい
この問題に対するリアクションは大体こんな感じ↓になります。
1.「功罪」ということばがわからない
2.「いいところ」「わるいところ」とわかっても思いつかない
3.使っているから「いいところ」は思いつくけれど機能の説明になってしまう
 例)音楽が聴けてテレビも見れる
4.「わるいところ」はよく言われがちなことしか思いつかない
 例)マナーが悪い

正直、4まで行く人はかなりいい方です。100字くらいは書けるし、言われがちなこと=一般論をとりあえずおさえているから。でも、1とか2で止まっちゃう人もいる。1行も書けない。1文字も書けない。思考停止。
私が考える「書けない人」というのはこのレベルです。入学試験という、書く必要に迫られているのに、書けない。
いろいろ資料(ありきたりな一般論が簡単に書いてあるもの)を渡すのですが、まず読めない。本1冊なんてとてもムリ。A4のプリント1枚でも厳しい。「天声人語」が長文、という世界。
http://yumizou.blog1.fc2.com/blog-entry-829.html

引用されたような意味に於ける〈書くこと〉だと、どうしても〈考えること(thinking)〉というのと関わってこざるをえない。タイトルに使った陳腐な表現で言えば〈脳内対話〉である。〈書けない〉という人でも、会話において、質問とかに導かれて(誘導されて)「携帯電話の功罪について」の一応の結論みたいなものにそうとは知らずに辿り着いてしまうということもあるかも知れない。〈考えること〉ということは、この対話を自己内で行うことである。〈書くこと〉というのはその対話を眺めながら、それを文字化するということだろうか。やっかいなのは、〈書くこと〉はその対話をただたんにトランスクリプトするということではなく、会話する脳内人物が文字を読んで、つまり文字が会話にフィードバックされることなのであるが。〈書くこと〉=〈脳内対話〉というのは、日本のエクリチュールの歴史において、弘法大師の『三教指帰』に始まり、伊藤仁斎の『童子問』、現代の丸山真男吉本隆明廣松渉に至る〈対話体〉が重要な伝統を為していることからもわかるだろう。それだけでなく、FAQというのはネットの世界では定番である。私も小論文を教えたことはあるが、その場合でも、いきなり書かせるのではなく、まずは周りの人とディスカッションしてもらって、それから書いてもらうということになる。その場合、〈書くこと〉は会話を想い出しながら、それを自分で再構成することということになる。だから、〈書くこと〉というのはこうした対話を自分自身で行うことからなっている。書けないというのは、こうした〈脳内対話〉をする根気がない、だるいということなのだろう。だけれど、〈書くこと〉にとって全面的に〈脳内対話〉である必要はないのであり、というか、とどのつまりは自己のヴァリエーションでしかない〈脳内他者〉と対話するよりも実際の他者と対話した方が面白いものが文字になって出力される可能性は高い*2。実はこの水準においてこそ〈読むこと〉というのが問題になってくるのだと思う。公約に違反して、〈読むこと〉の領域に足を跨いでしまうのだが、重要なのは結論(或いは決算、bottom line)を出すために考え・書くというよりも、〈二の句を接ぐ〉ことなのかも知れない。〈二の句を接ぐ〉ことにおいて、結論(或いは決算、bottom line)を出さなければいけないというオブセッションは抑圧的且つ反動的な機能しか果たさないだろう。また、(管見の限りでは)小論文とか作文の教育で〈二の句の接ぎ方〉は殆ど教えられていないんじゃないかな。或いは、そういうことは現在では、ネットにおいてリンクを張ることを通して、習得されていくものなのか*3
ところで、(少なくとも私にとっては)難しいのは〈〜について論ぜよ〉などではない。難しいのは、勝義における現象学的記述。経験、私と世界とのインターセクションをそのまま文字に移し=写し替えること。これこそが悩ましい。

*1:http://yumizou.blog1.fc2.com/blog-entry-829.html http://d.hatena.ne.jp/kmizusawa/20060225/p1

*2:勿論、〈脳内対話〉は世界から引き籠もることなく社会から引き籠もる技法として重要である。

*3:ところで、勝又正直氏がネットと俳諧について書いている。http://shakaigaku.exblog.jp/m2006-01-01/#3370028

国際母語節

http://eunheui.cocolog-nifty.com/blog/2006/02/__7b7c.htmlで知ったのだが、2月21日はUNESCOの定めるInternational Mother Language Dayだった。「うに」さんが紹介した、アルジャジーラが伝えるAFP配信の記事*1によると、


Today 72% of internet sites are in English, followed by German at just 7%, and French, Japanese and Spanish at 3%.



About 90% of the world's languages are not represented at all on the internet, Unesco said.

ということである。上の数字を見て、中国語は日本語よりも少ないのかとちょっと意外に思ったりもした。少し前に、ZHU Shenshen “’Cn’ tops domain name list in Asia” (Shanghai Daily12 January 2006)という記事を看ていたから。Cnだけじゃなくて、hkやtwを含めるとかなりの数になるかと思うが、情報発信量からすれば、まだまだjpが上なわけね。寧ろ、問題なのは90%の言語はインターネット上に全く登場していないということの方だろう。この記事ではさらに、

In Africa - where one-third of the world's languages are spoken - about 80% of these are purely oral, and thus in greater danger of dying out, Unesco said.



The African Union has declared 2006 a year of African Languages.

と書かれている。言語の消滅、それは世界のヴァージョンが1つ減ることを意味する。その分だけ、世界が貧しくなることは事実だ。
AP “Languages in danger of dying out”*2も読まれたし。