「利己」から

坂本達哉『「共感」の思想史』*1から。
バーナード・マンデヴィル*2の思想。


「私悪は公益」という主著*3の副題で知られるマンデヴィルの思想は、人間は誰でも根本的に利己的であり、他人の幸福や利益をそれ自体として望み追及することはないという、ホッブスと同じ前提から出発する。
同時に、マンデヴィルは、ホッブスが人間の利己心を反社会的なものとして描いたことを批判する。ホッブスが「虚栄心」や「競争心」を人間の本性だと観たことは正しかったが、それゆえにこそ、社会の絆が強まるという現実を見損なった。「競争」による虚栄心の満足は反社会的であるどころか、人びとの関係をより緊密にし、文明社会はますます発展していくのである。トーマス・セドラチェクが言うように、マンデヴィルにとって、「市場は人間の相互作用の単なる調節装置ではなく、人間の悪徳を公益に変える転換装置でもあった」*4。(pp.31-32)

他方、マンデヴィルは市場における経済競争だけを考えて、「私悪は公益」の論理を展開したのではなかった。実際、彼は政治における「私悪は公益」をも視野に入れている。それが「名誉心」をめぐる一連の考察である。
人びとの経済競争では、生き馬の目を抜く厳しさは要求されるが、命をかける必要はない。これに対して、政治的な権力闘争は地位と権力を追求する闘いであり、古今東西の歴史をみても、その多くは命がけの活動である。人びとにホッブス的な「死の恐怖」に打ち勝って政治闘争に参加する動機を与えるもの、それが「名誉心」だと彼は考えた。(p.32)

ところが、マンデヴィルの「私悪は公益」の論理は、後のフリードリッヒ・ハイエク(一八九九―一九九二)の「自生秩序的」とは異なり、「上から」に代わる「下から」の論理だけでは構成されていなかった。政治における「私悪は公益」のメカニズムを最初に案出した、狡猾で怜悧な「政治家」や「立法者」の存在がそれである。
『蜂の寓話』の「美徳の起源に関する一探求」によれば、「立法者や他の賢い人びと」が社会の確立のために総力をあげた第一のことは、彼らが統治する人びとをして、「私益よりも公益に配慮」する方がさらに善いのだと、信じ込ませることであった。そして、「あらゆる時代の道徳家や哲学者たち」は、この非常に有益な主張の真実性を証明するために、最大限の知力を尽くした。これこそ、マンデヴィル理論の逆説的構造であり、後のルソーやスミスによって批判される当のものであった。(pp.32-33)