「人は身体一つで生きている」(草柳千早)

<脱・恋愛>論―「純愛」「モテ」を超えて (平凡社新書)

<脱・恋愛>論―「純愛」「モテ」を超えて (平凡社新書)

草柳千早『〈脱・恋愛〉論』から。


人は身体一つで生きている。たとえどんなにさまざまな生活圏を持ち、それぞれの圏でそれぞれの立場・顔を持っていたとしても、である。ある時ある状況での立場、例えば、学校の中の学生、企業の社員、売り場の店員、駅員、家族の一員など、ある限定的な時間と空間、ある特定の立場に立つ者としてそこにいたとしても、その人の生身の身体は一つなのであり、そこには、他の時間と空間、他のさまざまの立場を経験してきたその履歴、痕跡が刻まれているはずである。より正確には、そうした徴を、私たちは互いの姿に感受することができる。たとえはっきりとでなくとも、その全体的な雰囲気のなかに、その他者の「今ここ」では意識的に出していない別の顔、別の影を、そこはかとなく、あるいはときにはっきりと感じとることができるのではないだろうか。大の大人を前にしてその幼少時の面影に触れることさえ、ときにはある。もちろん、そのような感度を備えていれば、の話であるが。実際、私たちが特定の一面を互いに見せている時に、一つの身体でありながら他の面を一切隠して見せないことができるなどという方が非現実的というべきであろう。(p.198)
このパッセージの前半、特に(私にとって)「身体」はひとつしかないというのは、アルフレート・シュッツの「多元的現実」論*1の前提ともなっている条件であろう。
また、

身体は持ち主の意図を超えて、ただそこにいるだけでたえまなく情報を発している。敏感な受け手はそこから多くを感じるだろう。それゆえにこそ、ある時のある状況におけるある人をその特定の立場でしか見ないことを、「一面的」な見方だとか、「表面的」な受けとり方だと、非難の意を込めて言うのである。人はつねに、その時その場で私が見て感じている以上の存在なのである。その時その場で直接感じとれないことについても、私たちには、謙虚な想像力という能力がある。(pp.199-200)