引き返し

岩崎航*1「あなたも 私も 生きるための伴走者になって」https://www.buzzfeed.com/jp/wataruiwasaki/ikirutamenobansousha


3歳から「筋ジストロフィー」とともにあったという。
17歳のときに「自殺」を思い、次の瞬間に一転して生きようと思ったことを以下のように語っている;


自殺しようと思った日のことは鮮明に覚えています。

ある日の夕方。誰も見ていない自分の部屋でナイフを見つめました。

「いったい何のために僕はこの世に生まれてきたのかな……」そう思うと、ぽろぽろと涙がこぼれました。

でも、次の瞬間、「最後に、もう一度。死にものぐるいで生きてみよう」という激しい思いが湧き上がってきました。その思いは「このまま自分が死んでしまったら、自分はなんのために生きてきたんだろう」という問いでもありました。

命の奥底、存在の奥底から「自分はこんなに嘆き悲しんだり、涙ばかりこぼすために生まれてきたのではない。このままで死んでたまるか」という怒りみたいな思いが突き上げてきたことで、それがきっかけになって自殺するのをやめました。

?死にたい?と思う心から?生きよう?と思う心への変化がどうして起こったのか、私にもよく分かりません。たとえ一時、死んでしまいたいという気持ちに覆われていたとしても、その奥には消えない灯火として、生きたいという気持ちがあったのだと思います。

自殺を踏みとどまった後も、自分の気持ちがすっかり整理されたわけではなくて、葛藤し苦しみは続きましたが、その中で徐々に「病気を含めての自分なんだ。そのままの自分で人生を生きればいい」という心境に変わってきました。

そうすると、人と比べて嘆いて落ち込むことがなくなっていきました。病を含めての自分として生きるという気持ちが固まった時に、はじめて私は、自分の人生を生きはじめたのだと思います。


その後、私は二十代の前半に体調の悪い時期が4年ほどありました。

ストレスが原因と思われる絶え間ない吐き気に襲われるようになってその苦しさにのみ込まれて、気力も何も出てこなくて、ただただ茫然と月日が流れていくのに身を任せていた時期でした。

今、思えば、こうした日々もいつ自殺に気持ちが傾いてもおかしくない瀬戸際にいたともいえます。

当時のある日、たまたま部屋で母にお茶を飲ませてもらいながら、とりとめのない会話をしていた時、話の流れでふいに私がぽそっと「ぼくにはもう夢も希望もないよ」って言ったことがありました。

別にその場で母に何か恨み言を言うつもりはなかったのですが、自分の正直な思いが呻きのようにこぼれたのでしょう。すると母が「お母さん悲しいな」って、ぽそっと言ったんです。そのたった一言の言葉が、何とも言いがたい痛切な響きだったのを覚えています。

私がその時点で生きることに「もう夢も希望もないよ」って言ったのは、私が心から思ったことです。その言葉に対して、「お母さんは悲しいな」って言ったというのは、そこには、子どもが生き生きと輝いて、生きがいをもって生きていってほしい、子どもが幸せであってほしいという気持ち、願いが込められていたと思うのです。

目の前で子どもが、生きがいを見いだせずに苦しんでいる。絶望のどん底で夢も希望もないと言っているのを見て、それを目の前にして「悲しい」って言ってくれる親のその言葉もまた、本当に心の底、命の底から思っている言葉なんだと感じました。

本当に心の底から相手を思ってかける言葉は「祈り」だといってよいと思います。そういう言葉を聞いて、その場では目に見える変化みたいなことは、起こりませんでしたが、その時、自分が本当に言った言葉に対して、他者から本当で答えてもらった経験は、自分の中の何かを動かしたのではないかと、私は思うのです。

絶望の中にいたような、どうにもできないような気持ちでいた時でも、そこから動き出す、抜け出していくきっかけのような、そういうものにもなった。

人と人とが本当の思いを交わすことは、互いの心を何かしら揺り動かしていくものではないでしょうか。

「受けとめてもらえた」「そのままを聞いてもらえた」という体験は、人を力づけるものだと思います。自分の奥底の思いをその一端でもよいから知っていてもらうこと、それだけでも人は支えられることがあります。

みんな生きていれば、心の中に言葉があるでしょう。自分の思いを誰かに話す、聞いてもらう、また、そういう話を聞くということは、人間にとって生きていく上で本当に大事な欠かせないことなのではないでしょうか。

なかなか難しい。発した人はそう思っていなくとも、「言葉」は逆の方向、死の方向に心を「揺り動かしていく」こともできる。「絶望」した人に対して言葉を発することはそのようなリスクを含んでいる。そういうリスクを意識してしまうと、「絶望」した人に対して言葉を投げることを躊躇してしまい、その人を腫れものでも触るように扱ってしまうということもあるのでは?
これまで生きてきて、「自殺」を考えたことは何度かある。その中で、何故「自殺」を止めるのかという理屈を考えたことがある。考えたのは、「自殺」は何時でもできる、何処かの国に明日できることを今日やるなという諺があるように、何時でもできることは優先順位が低いというか、今急いでやる必要はないということだ。今ここで死のうとしている人がいたら、そんなの何時でもできるから焦って今する必要はないよ、とはいうだろう。


末井昭*2、岩崎航「「自殺」を「生き抜く」。」https://synodos.jp/welfare/14107


この対談の最後の方に、「人生の着地点」という言葉が出てくる。末井氏は、


ぼくの場合、これまでいろいろよくないことも経験してきましたけど、今ではよくないことも自分にとってはいい経験だったと思っていて、着地点と言うと「今」だと思いますね。また明日になったら明日が着地点のような気がしてるんです。

ぼくはいつも早とちりするというか、何も考えないで行動することが多いんですが、そのために無駄な回り道をしてきたと思うんです。

たとえば、工場に就職したことも、工場は素晴らしいものだっていうイメージがぼくの中にあって、勤めてみて初めてどんなとこかわかることになるんです。あとキャバレーの宣伝課に勤めたこともあるんですけど、そこに行ったのもキャバレーこそ自由に表現が出来る場所だと思い込んだからです。

そういうふうに回り道ばかりしてきたけど、そのぶん経験の幅が広くなったというか、そういう経験を文章などで語れるようになって、それまで無駄のように思っていたことも、自分にとってすべて必要なことだったと思うんです。

真っ直ぐじゃなくて、クネクネした人生の道を歩いてきたんですが、借金地獄とか離婚とか結構大変なこともあったんですが、今思うとそれも自分をいい方向に導いてくれていると思うので、着地点は今だと思うんですね。本当にどんどんよくなっている。それは経済的にとかじゃなくて、気持ちのことです。そしてそれは、今日より明日、明日より明後日のほうがよくなると思うので、最終的な着地点は死ぬ時かなと思ったりしてるんです。

と言っている。それに対して、渡辺氏は、

今が着地点というのは、私の中でも本当に、そうだなあと思いますね。本当にいろいろあったりもしたんですけど、昔と今を比べると、確かに体はすごく不自由になってしまって出来ないことが山のように増えてしまって。

そこだけを見ると悪くなってるような、どんどん年を重ねるにつれて苦しい状況だけが深まっているように見えてしまうかもしれないけれど、私の中ではそういう感じは全くなくて、末井さんがおっしゃっているような意味では、よくなっている。自分の中では、以前よりも、生きる手ごたえを感じられているんですね。

そりゃ、体は、一見すれば本当に不自由で、楽しいことも何もないんじゃないかっていうふうにみんなに見られてしまう向きもあるかもしれないけど、私の中ですごく今、生きてるんですね。

確かに、走ったり、歩いたり、いろんなことができたり、おいしいご飯が食べられたりとか、出来たら素晴らしいです。今だってそういうふうに出来たらいいなって思うことはある。別にそういうのはいらないって思ってるわけでもないですし、あったらあったで本当に素晴らしいことだと思うんです。

だけどそれ以上に、自分の中で生きる手ごたえっていうものがあれば、その人がどんな状況で、人にどう言われようが、思われようが、関係ないんですね。

身体が不自由になったことで困っていることとか、悩んたり、苦しんだりすることもあるんですけど、けどそれ以上に、生きる手ごたえがあるんですね。だからそういうものがちょっとでも感じられたらもう、十分。

と語っている。末井氏が言っているのは、過去のネガティヴな経験の意味ということだろう。勿論、生きるということは、結局は択ばなかった選択肢への未練、つまり後悔することと同義だとは言える。その一方で、現在には、ささやかなものであっても、悦びとか幸せというのはあるわけだ。例えば、今飲んでいる麦酒が美味しいというのも含めて。現在が複雑に絡む過去の帰結だとしたら、いくらネガティヴなものであっても、過去を否定してしまったら現在のささやかな悦びもなくなってしまうんじゃないかと思ってしまう。だとしたら、過去のネガティヴな経験(黒歴史)にもそれなりの意味を認めなければいけないのでは?


坂口恭平末井昭向谷地宣明「カレー、チンして食べたら治りました――スプリング・躁鬱・スーサイド!」https://synodos.jp/society/9846


「誤作動」;


向谷地 「誤作動」という言い方は、べてるの家でもするんですよ。もしかしたら、偶然の一致かもしれないですけれども。基本、精神疾患というのは、五感にいろいろ変調が出てきて、幻聴とか幻視もそうですけど、基本、誤作動だらけなんですよね。

末井 べてるでは、「幻聴さん」と呼んでますよね。2000人の幻聴さんがいる人もいるとか。


向谷地 そうです。誤作動に名前をつける。幻聴の他にも、触られてないのに触られたとか、叩かれてないのに叩かれたとかそういった誤作動もあります。

「死にたい」と思うのも誤作動です。患者さんに「死にたい」と言われたら、「あっ、それは誤作動だな」と僕たちは受けとめるんですよ。「今日は、なんの誤作動だと思う?」って聞くことにしています。そしたら、「う〜ん、あれかな、これかな」と本人は言うんですが、「ところで、ご飯食べた?」って言うと、「朝から何も食べてない」って返ってきたりして。

「じゃ、何か食べてみたら?」と言って家に帰したら、「カレー、チンして食べたら治りました」って電話がかかってきたり。つまり、「空腹誤作動」だったわけです。ただ空腹なんだけども、「空腹」ってサインをなぜか本人が「死にたい」と感じてしまう。

坂口 僕も、夫婦で喧嘩がはじまったときに、「ちょっと待て、フーちゃん!」と。「この展開は覚えがあるぞ」って。「おそらく俺らは餃子を食べたら治るはず」って。そして、治るんですよ(笑)。

向谷地 夫婦で誤作動を起こしてるんだ。