影の博覧会?

山本一郎*1大阪万博誘致案がいろいろとトンデモな方へ向かっている件」https://news.yahoo.co.jp/byline/yamamotoichiro/20170315-00068733/


「いのち輝く未来社会のデザイン」をテーマにして2025年に大阪に万国博覧会を誘致しようという動きが一部で盛り上がっているらしいのだが、そのアイディアというのが(山本氏の言葉でいうと)「いろいろとトンデモな方へ向かっている」のだという。先ずは「遺伝子データを活用したマッチング」。まあ、それって婚活というよりも種付けじゃないの? というのが第一印象。肉牛や競走馬ならともかく、人間対象にはかなりアレだよねという感じ。でも、これは優生学的欲望が社会意識の表層のちょっと下くらいに潜在しているということなのだろうか。


ほかにも、遺書をしたため棺桶に入るイベントや、地獄を謳歌する音楽フェス、バーチャルに死刑執行人を体験、死を身近に体験するためのバンジージャンプVRによる仮死体験、ARによる黄泉体験、世界の葬儀体験等々、妙に抹香臭い印象の企画が多数リストされており、なんだか無駄に金とテクノロジーを注ぎ込んだ総合お化け屋敷的なグロテスクものができあがりそうです。

はたしてこうした見せ物が万博の催し物として相応しいのかどうかちょっと理解に苦しむところもありますが、万博の意義として「人類は二度の世界大戦と環境破壊を経験し、科学技術万能主義の限界と矛盾が明らかになることで、国際博覧会に人類共通の課題解決を提言する場としての役割」が求められているという点をいろいろと突き詰めていくと結果としてこういことになるのかもしれません。

山本氏にはdisられているけれど、私としてはけっこう面白いと思う。まあ「遺伝子データを活用したマッチング」の無邪気すぎる科学主義との落差を整合的に解釈することはまだできないのだけど。要するに、陽あれば陰あり、光あれば影あり、昼あれば夜あり、生あれば死あり、ということだろう。これまで、万博においてこうしたマージナルな領野がフォーカスされたことはないのではないか。そういう意味では画期的とも言えるのではないか。さらに、生と死を単純に対立させるのではなく、生は日々の〈小さな死〉の集積であるということで、エクスタシーやオルガスムスの経験、それらを引き受けるセクシュアリティという領野もフォーカスしなければいけないのではないかとは思うけれど。
ただ、「いのち輝く未来社会のデザイン」というのはテーマとしては何でもありになって、無テーマと等しくなってしまうよ。
これを読んで、「テクノ法要」を実践する福井市の照恩寺(浄土真宗本願寺派)の朝倉行宣住職を取材した、影山遼「斬新すぎ!テクノ法要がぶち壊す「固定観念」 DJ住職の思いとは?」という記事も思い出していた*2