「元幹部」など

以前にも何回か書いたが、私は「カルト」なる用語の学術的意義を殆ど認めていない*1。ただ、(元)信者のライフ・ヒストリーへの「統合不可能性」を問題にする樫村愛子さんの定義(『ネオリベラリズム精神分析』)は別*2

ネオリベラリズムの精神分析―なぜ伝統や文化が求められるのか (光文社新書)

ネオリベラリズムの精神分析―なぜ伝統や文化が求められるのか (光文社新書)

靖国ニセ科学も両方ともカルト。どちらも断固として拒絶すべし」http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20161224/1482542081


曰く、


話が変わるが、カルトに絡む話題では、かつて『しんぶん赤旗』がカルトと認定した「親鸞会」の元幹部・柴田未来を参院選石川選挙区で民主党(当時)と社民党が担ぎ、「野党共闘」によって共産党と生活の党(当時)がこの候補を支援した件について、一時期『ほぼ日刊カルト新聞』が批判のキャンペーンを張り、菊池氏*3を含む「反ニセ科学」の人たちからも批判されたようだ。この件は、例えてみれば共産党統一協会とズブズブの室井邦彦田中康夫勝谷誠彦らとも仲が良い)を支援した(もちろんこれは現実ではなく仮想の話。室井は現在日本維新の会所属の参議院議員)ような話だから、批判されて当然だとは私も思う。但し、元幹部を担いだのはもともと民主党(現民進党)と社民党だから、民進・社民両党のカルト体質とそれにすり寄る共産党(と生活の党=現自由党=)という観点から批判されるべきだ。たとえそれが「野党共闘」のタブーに抵触するとしても。
そういうことがあったんだね。世間知らずも茲に極まれり(苦笑)。「親鸞会*4ですか。「親鸞会」関係者を担ぐということは、民主党民進党)や社民党にとっては、そもそもの支持層と軋轢を起こすリスクが高かったんじゃないかしら。「親鸞会」は浄土真宗から異端認定されている。元々浄土真宗は部落解放運動や反靖国運動との関係で、旧社会党支持者が多かった筈。カトリック側からもプロテスタント側からも異端認定されている「統一協会」関係者を担げば主流派のクリスチャンからそっぽ向かれる可能性が高いのと同様。
タイトルも含めて、上に引用した部分での「カルト」の用法は(私にとって)棄却の対象ではある。特に「ニセ科学」というのは所謂「カルト」とは問題の次元が違う。「カルト」というのは組織論の準位の問題であり、「ニセ科学」というのは知識論の準位の問題。勿論、「カルト」と目される集団が「ニセ科学」をその教義にビルトインするケース、「ニセ科学」が所謂「カルト」的組織形態を取るケースは実際に存在してもいるわけだけど。
さて、

私は、リベラル・左派の間で「野党共闘」批判がタブーになっていること自体が最大の問題点で、「『野党共闘』タブー」などもってのほか、そんなものが存在してはならないと思う。「野党共闘」批判は、何も野党共闘を止めろという意味ではない。共闘に妥協が必要なのは当たり前だが、妥協してはならない点については断固妥協してはならない(ダメなものはダメ)という立場からの強い内部批判によって鍛えられない限り、「野党共闘」は強靱なものには絶対ならない。同調圧力に支えられた「共闘」など簡単に崩壊するだろうし、それ以前に有権者の支持が得られず選挙に勝つことすらできないだろう。
これについては、もっと哲学的に詰める必要があるのだと思う。先ず言えることは、公共性をコミュニティ(共同体)と混同してはいけないないということだ。公共性は自由な議論のための空間として構築・保護されるべきなのであって、「タブー」によって議論が封じられるというのは本末転倒だろうということだ。