- 作者: 石井米雄,山内昌之
- 出版社/メーカー: 国際文化交流推進協会
- 発売日: 1999/05
- メディア: 単行本
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半藤一利*1「小錦の横綱問題と攘夷の問題」(in 石井米雄、山内昌之編『日本人と多文化主義』国際文化交流推進協会、1999、pp.75-91)
少しメモ。
「国技」という「美名」の起源は明治42年でしか遡ることはできない。同年に旧両国国技館が完成したが、その建物はまだ命名されていなかった。尾車という年寄が江見水蔭という文人に依頼した「開館披露文」の中に、「そもそも角力は日本の国技」という文言があった。それをいただいて、新しい建物は「国技館」と命名された(pp.85-86)。
(前略)実を申すと、少々くわしい人は相撲が日本古来からの「国技」なんかでないことは知っているのである。日本の相撲のそもそもには、外から渡来してきたものと先住のものとの力くらべ、しかも勝つのは渡来してきたもの、という神話的な起源伝説のあることも存じている。それだけに国際化の美名をうべないつつも、「ハワイトリオ」*2の圧倒的な体力を利しての猛威を目にすると、心おだやかならざるものがあるのである。
日本の相撲の始祖として祀られているから、好角家にして野見宿禰の名を知らぬものはいない。出典は『日本書紀』で、垂仁天皇七年七月七日、天皇天覧のもとに野見宿禰と当麻蹴速が「力くらべ」をして、宿禰が蹴速の脇骨を折って勝った、という記述がのっている。
これが日本の相撲の開幕をかざる話。しかもそもそもの起源を語ってくれている。もともと相撲とは、遠来の神と土地の精霊との間に行われる力くらべであったのである。遠来の神が土地の精霊を圧倒して、服従を誓わせ、豊作によって人間の生活を守ることを約束させる行事。この土地の精霊というやつは、常に住民に反抗しようとする。凶作をもたらした、疫病をはやらせる。これを圧伏しておかなければ、田の稔りなど保証されない。そこで、稲が実をつけはじめるころ、住民の前で、遠来の神が土地の精霊をやっつけるという”お祭り”を行うのである。
野見宿禰は、『書紀』によると、はるばる出雲からよばれてはるばる大和へやってくる。当麻は大和の土地名であるから、当麻と名乗る蹴速は負ける。負けないと祭りにならないからである。しかも、時は、稲が穂をつけはじめる旧暦七月七日。なにからなにまで、よくできた話なのである。(pp.83-84)
さて、1992年に勃発した〈小錦騒動〉だが、先ず春場所中に発売された『文藝春秋』4月号に、戦記ノンフィクションで有名な作家の児島㐮の「「外人横綱」は要らない」というエッセイが掲載された、小錦は1991年九州場所で優勝し、初場所では優勝は逃したものの12勝を上げ、春場所では13勝2敗で優勝したにも拘わらず、横綱に昇進できなかった。これらの問題をNYTやAP通信が報道したことが契機となって、大々的な小錦バッシングが捲き起こった。「協会*3に迷惑をかけてしまった」ことへのお詫びと相撲協会の寛大な処置によって、急拠幕が引かれてしまった(pp.77-80)*4。また、翌年の1993年には、曙太郎が外国人としては初めて横綱に昇進した(p.81)。
結論部を引用;
(前略)過ぐる日の小錦の横綱問題での日本人一般の、あの高慢で、攻撃的な反応を思うとき、なんだいまも昔とあまり変わっていないな、という情けない思いにわたしはとらわれる。日本社会とは、所詮、日本人の、日本人による、日本人のための社会であって、結局はほかの何ものでもない。
(略)ガイジンが日本社会にこころよく受けいれられるのは、日本人に「お客」としてよばれるか、「助っ人」として雇われるか、この二つの方法しかないようである。かつての日の小錦はお客でも助っ人でもなく、花園を荒らす猛獣であった。であるから、かれは許されなかった。そして曙はよく飼いならされた相撲界繁栄のための”助っ人”の役割をよくはたしたから、大きな目で見られて、その役割の範囲で横綱を締めることが許された。そして武蔵丸は一所懸命に「日本の心」を学ぶことを誓い、大歓迎されている。
(略)外国人が日本の一つの組織にうまく入りこめたということは、そのとき、彼(又は彼女)は日本人になった、ということなのである。しかし断然わが道を行くで、お客でも助っ人でもなしに、大きな力、技術、主張などを真っ向から浴びせて、ガンガンと開国を迫ってくれば、日本人は攘夷の精神を喚起する。小錦の横綱問題は、まさに日本人の胸奥にひそかに息づく攘夷の精神が、ナマの型で噴きでようとした問題であった。はたして攘夷の精神は死なず、なお生き続つづけているのか、それを知るための絶好のチャンスであった。(pp.90-91)