尾崎、中沢、菅(メモ)

3つの名前を並べたからといって三題噺をするわけではない。ただの新聞切り抜き。
『読売』の記事;


尾崎豊ファン聖地、取り壊しへ…二十回忌の年に

 若者の苦悩を歌って「10代のカリスマ」と呼ばれた歌手・尾崎豊を慕うファンに開放されてきた東京都足立区の通称「尾崎ハウス」が10月上旬、所有者の家の建て替えとともになくなることになった。

 「15の夜」「十七歳の地図」など数々のヒット曲を残し、26歳で急逝してから19年。二十回忌の節目の年、ファンは思い出の地から「卒業」する。

 1992年4月25日早朝、泥酔した裸の若い男が1人、小峰忠雄さん(72)宅の庭にいるのを妻の豊子さん(70)が見つけた。それが尾崎だった。体に打撲や擦り傷もあり、救急車で病院に運ばれたが、その日午後に肺水腫で死亡した。

 直後から小峰さん宅前にファンが訪れるようになった。半年後、毎晩泣いていた女の子を小峰さんが「いつまでも外にいないで」と招き入れた1階の6畳間。以来、小峰さんはこの部屋をファンに開放してきた。

 不登校の高校生、人間関係につまずいたサラリーマン、拘置所から出てきたばかりの男性……。様々な悩みを抱えるファンが互いの人生を語り合う場になり、輪になって尾崎の曲を歌うこともあった。部屋は尾崎のCDや書籍、イラストなどであふれ、ファンが思いをつづったノートは70冊を超え、本にもなった。

 だがここ数年は訪れるファンも減り、部屋の開放は尾崎の命日の4月25日と誕生日の11月29日だけとなっていた。小峰さん宅は10月3日にも取り壊される。夫妻は「若者たちはみんな羽ばたいていった。この辺で終わりにしていいのでは」。
(2011年9月28日14時33分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110928-OYT1T00656.htm

来年は20回忌か。
尾崎豊*1関連文献として、橋本努『自由に生きるとはどういうことか』*2(第4章「この支配から卒業せよ」)をマークしておく。曰く、

(1) 尾崎豊が歌う「この支配からの卒業」としての「自由」は、フーコーのいう「牧人権力」からの「自由」というテーマと重なっている。
(2) 尾崎はこの「牧人権力」から自由になるために、一方では覚醒剤の幻想に浸り、他方では消費社会に身を投じた。しかし刹那的生活のなかで、尾崎は最悪の精神状態に陥った。
(3) 尾崎は結局、〈学校的なるもの〉の意義を見直して、「この支配からの自由」とは別の自由を求めていった。それは「胎内回帰としての愛=自由」である。(p.155)
東京新聞』の記事;

脱原発掲げ「緑の党」  中沢新一氏ら来月にも


2011年10月3日 朝刊

 人類学者で明治大学野生の科学研究所長の中沢新一氏(61)らが「緑の党」(仮称)を十一月にも立ち上げることが分かった。中沢氏が本紙のインタビューに応じ、語った。脱原発を綱領の柱に掲げ、東日本大震災後の日本の転換を目指す運動を展開。欧米の「緑の党」との連携を図る。

 「緑の党」には有識者のほか、里山保全地域通貨の創設などに取り組む市民団体メンバーらが参加。正式な名称や具体的な活動内容は今後詰めるが、最初は正式な政党の形態はとらず、創刊予定の雑誌や、インターネットなどを使って全国のネットワークづくりを進める予定。

 エネルギーでは太陽光やバイオマスだけでなく、植物の光合成の仕組みを応用した発電などの提言を検討。他の政策課題でも、成長を前提とした経済から脱して、有機野菜中心の食生活や自動車に依存しない生活を目指し、情報発信する。

 中沢氏は「震災後の日本は政治が貧弱化している。生き方の根底を大きく変えるネットワークをつくるのは今しかない」と「結党」理由を説明している。

 当面は国政選挙には直接かかわらず、中沢氏も「立候補するというと従来の既成概念が先行してしまう」と自身の出馬に否定的だが、将来候補者を支援、擁立することも「有力な選択肢」としている。原発のある自治体と連携、住民投票を行う運動にも取り組む。

 欧米では一九七〇年代以降、反戦や反原発を掲げる「緑の党」という名の政党が誕生。ドイツでは一九九八年に連立政権入りし閣僚ポストを得たほか、福島の原発事故後も、脱原発を掲げて支持を広げている。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2011100302000016.html

今度は中沢新一*3。この記事は「経済思想」さんに教えてもらった。まあ特に論評することもない。
そして、菅直人。『朝日』の記事;

2011年10月3日21時17分


菅前首相、お遍路再開「復興と原発収束祈った」


 菅直人・前首相が四国霊場八十八カ所の遍路を再び始め、3日は午前中に、愛媛県今治市の55番札所南光坊に到着。参拝を終えると、58番札所仙遊寺に向かって出発した。

 2日に松山市の53番札所円明寺から歩き始めた。南光坊では「震災からの復興と一日も早く福島第一原発事故が収束するよう祈った」という。参拝者に握手を求められたり記念撮影に応じたりと大忙しで、岐阜県からの参拝グループの女性(63)は「テレビで見るより爽やかな印象。震災があって大変な時期にご苦労さまでした」と話していた。
http://www.asahi.com/politics/update/1003/OSK201110030050.html

「四国遍路」についてはhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110115/1295096309も参照されたし。また、http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20111003/1317652947 http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20100606/1275784083も。

*1:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070427/1177703588 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070430/1177955798 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070502/1178036988 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070518/1179458835 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070827/1188188656 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101220/1292781372 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110502/1304366060 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110901/1314899481

*2:Mentioned in http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091230/1262140525 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100816/1281930523 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110226/1298700874 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110710/1310316856 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110714/1310612877

*3:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20050817 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20050824 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070427/1177654470 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070911/1189437787 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080228/1204212786 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080809/1218252114 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080916/1221544195 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090221/1235199344 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091120/1258696685 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100206/1265435465 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100426/1272257624 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100518/1274146122 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101118/1290096150 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110102/1293961283 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110703/1309699073 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110829/1314543718 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110901/1314899481