「めぐりあう」、今頃

めぐりあう時間たち [DVD]

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http://d.hatena.ne.jp/nessko/20110715/p1
http://d.hatena.ne.jp/ohnosakiko/20110527/1306515814


何故か今頃になって、Stephen Daldryの映画『めぐりあう時間たち(The Hours)』*1についての記事を2本読む。
先ずnesskoさんの文で面白いなと思ったのは、(表現すべき)言葉を持つ/持たないという対立を採り上げていること。具体的には、ヴァージニア・ウルフ(二コール・キッドマン)とローラ(ジュリアン・ムーア)との対立。また、これはローラとクラリッサ(メリル・ストリープ)の対立でもあるだろう。この映画の主な登場人物は言葉を持つ/持たないということで分類できるかも知れない。「ローラの夫がどうなったのかが気になるが、彼を描くには別の物語が必要だろう」。彼も〈言葉を持たない〉側なのだろうと、殆ど根拠もなく思った。ローラの息子でクラリッサの元恋人でもあるリチャードは詩人であるので、〈言葉を持つ〉側になる。興味深いのは〈言葉を持つ〉側の人たちは自殺をしているが、〈言葉を持たない〉側は生き残るということだ。編集者であるクラリッサは双方の中間に位置している。彼女のすることはリチャードの自殺を隠喩的に反復することである。以前にも書いたのだが、窓から身を投げるリチャードとゴミ箱に投げ捨てられるパーティの残飯は等価なものとして、隠喩的な反復として描かれている。この反復があるので、大野さんが「リチャードの自死という出来事は、クラリッサにとって依存の対象が消え、不安のまっただ中に放り出されることを意味した」と述べていることに対しては、取り敢えず疑問符をつけておく。
大野さんは「水」を重視している。曰く、


睡眠薬を持ってホテルに行きベッドに横たわったローラを俯瞰で捉えたシーンで、突然ホテルの床に大量の水が溢れ、彼女の身体を揺さぶる。ローラの夢を表象するかのような幻想的な場面だが、ヴァージニアが死に際して水に呑まれるのと同様、ローラも生死の境目で水に包まれている。

この自殺の断念を妊娠に気づいたためだったと考えると、ローラを囲んだ水は生そのもの、つまり彼女の胎児を包んだ羊水のようにも思われる。しかし"計画変更"が元の鞘に戻ることではなかった証拠に、彼女はその夜、子どもを産んでから家出することを決断している。

この映画から「水」のイメージを感じ取るというのは自然なことだろうと思う。それは映像だけでなく、何よりもフィリップ・グラスの音楽によって。グラスが喚起するのは、「水」といっても、流れる水というよりは循環する水だろう。邦題に「めぐりあう」が付けられたのもグラスの音楽の影響が強いのではないか。
The Hours

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因みに、水に浸かる女性のイメージの原型はラファエル前派が偏愛したオフィーリアでは? それから、映画における女性の入水で最も印象が強いのはウディ・アレンの『インテリア』*2だけど、この場合は海岸を歩いて荒海に入っていくという仕方。女家長の死であり、意味が全く異なる。なお、小川に浸かる女性作家だと、『アイリス』のアイリス・マードック。但し、彼女の場合は「自殺」ではなく認知症の故だけど。
アイリス [DVD]

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