不機嫌の子孫?

深町秋生石原慎太郎の目指すもの「嫌悪の狙撃者」」http://d.hatena.ne.jp/FUKAMACHI/20101213


石原慎太郎*1論。
ここで採り上げられている『嫌悪の狙撃者』という小説は読んでいないのだが、石原がその「少年ライフル魔事件」に凄く心を揺さぶられたということは知っている。
深町氏の結論部を書き写しておく;


ふつう人間、歳を取っていけばモリシゲ的に丸くなるものだし、いい人ぶりたくもなるものだが、都知事に関してはブレがないように思える。尻を撃ち抜かれた酔っ払いのように、現在も大衆を変わらず嫌悪し、侮蔑し、醜悪でおぞましいものだと考えている。本人だって何度も何度も「お前らはとことんバカで無価値で、虫けらみたいに殺してもいいとさえ思ってるんでございますよ」と懇切丁寧に表明しているにもかかわらず、それでも議員や知事職につかせて、権力を与えるのだから、それを選ぶほうもどうかしているという話ではある。都民というのは度し難いアホ……とまでは思わない。べつに山形で出馬していても、ふつうに当選していただろうから。


「NOといえる人」「裕ちゃんの兄」「文壇の重鎮」と、ぼんやり支持する理由はあるのだろうけれど、そうして「慎太郎知事がんばって」と応援している人間に対しても「け、くだらねえ。死ね、カス」というのが、彼の変わらぬ信念なのだと思う。暴言を吐いて新聞記事になってもさっぱり懲りないところを見ると。もしかすると「こうまでお前らをディスってるのに、それでも選ぶお前らって救いがたいバカだね」とさえ考えてるのかもしれない。やっぱりおれの考えは正しかったのだと。


ひょっとすると都知事の考えがいまいち世に伝わっていないから、彼はいつまでも大物政治家で、都政を好き放題にやっていられるのかな、と考えた時期もある。なんたって彼の文章ときたら長ったらしくて読みづらいし、文学なんてたいして読まれはしないものだし。メディアはなにをしている、と怒りに駆られたものだった。彼の実像をちゃんと伝えるべきだろうと。


しかし最近はそうでもなくて、彼のパンク宣言は充分に、都民や国民なりにきちんと伝わっていて、ちゃんと理解されたうえで選ばれているんじゃないかと思うときがある。寛容や隣人愛やリスペクトよりも、嫌悪と拒否と侮蔑の王国にしたいと、積極的な意志でもって都民(というか国民)は、彼の政治に加担しているのではないかと思う。あの渋谷でライフルを無差別にぶっ放した少年のように。

「パンク」じゃないということは言っておかなければならない。しかし、たしかにこうもいえるとは思う。石原自身、自分は一貫して実存主義者だと最近も語っていたし。まあスターとか独裁者というのは誰でもそう思っているというか、そう思ってなければやってられないよということはあるのだろう。ただ、そうは思いつつ、石原の発言というのが寧ろ(自らが軽蔑している筈の)俗情に媚びているんじゃないかと思うこともしばしばなのだ。それって矛盾していないだろうか。
ということで、深町氏の論はその中心的な部分において間違っているのだ。石原は「大衆」をdisっているのではない。寧ろ「大衆」が嫌悪するものを、彼ら・彼女らに代わってdisっている。石原を支持する「大衆」はそう思っている筈だ。本人もそう思っている可能性はある。「大衆」が嫌いなもの、官僚だの政治家だのといったエリート、所謂〈権威〉、さらには〈俗悪〉なるもの。「大衆」って〈俗悪〉なんじゃないか。いや、自らが〈俗悪〉を免れた〈無垢〉であることを照明することは〈俗悪〉と名指されたものをdisることによってしか可能ではない。つまり、「大衆」は自分自身(の一部)を攻撃することによって自らを守る。自らを守るために自分自身(の一部)を攻撃する。石原慎太郎は今でも(広義における)老〈憤青*2、或いは反権威主義者だと思っているのではないか。近年の石原慎太郎の口撃の対象として、現代アート仏蘭西語というのがある。現代アート仏蘭西語が喚起する様々なコノタシオンに対して、「大衆」は複雑に錯綜したルサンティマンを持っていると思われる。これに関しては、「大衆」の中の石原慎太郎とは政治的に相容れない人たちでも、その内に秘めたルサンティマン故に慎太郎、よく言った! と心の中で喝采した人も少なからずいたのではないかと勝手に推測している。反権威主義ということだと、旧制高校的教養をひけらかす渡邉恒雄中曽根康弘に対しては、その政治的スタンスが近いにも拘わらず、Fuck! と思っているのではないか*3。そういえば、竹内洋氏も『教養主義の没落』の中で石原慎太郎を戦後における「教養主義」没落の立役者として位置づけていた。
教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化 (中公新書)

教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化 (中公新書)

ところで、深町氏のエントリーに対するブクマ・コメントで興味深かったのは、

pollyanna ポピュリストの大衆嫌悪って、なんかミソジニーっぽい。自分が依存している対象を見下して嫌悪するって意味で。 2010/12/13
http://b.hatena.ne.jp/pollyanna/20101213#bookmark-27267972

Midas ああ勘違い, バカ勢ぞろい, 今週の魔女狩り 文学史から補足しとくとこのメンタリティは石原だけでなく日本近代文学の伝統。↓「なぜ彼が芥川賞の…」等は的外れ。結婚した谷崎松子が1番驚いたのは夫の口癖が「不愉快だ」だった事。書籍『不機嫌の時代』を見よ 2010/12/14
http://b.hatena.ne.jp/Midas/20101214#bookmark-27267972

dohenkutsu 自分の中の醜悪なものに対する嫌悪感を他者に投影してそれを叩いているわけだから、石原の罵詈雑言は自己憎悪の亜種ということになる。つまり、彼は太宰の正統な後継者であるわけだ(本人は認めたがらないだろうけど 2010/12/14
http://b.hatena.ne.jp/dohenkutsu/20101214#bookmark-27267972
さて、Midas氏が山崎正和『不機嫌の時代』に言及している。そういえば、先日finalvent氏がこの本を採り上げていたのだが*4、氏に反して、私はこの本は充分に「今日的」だと思う。それは、〈軽佻浮薄〉とか〈俗悪〉に対する嫌悪感が或る種の罪悪感や正義感と結びつくときに悲惨な帰結をもたらしたことに言及していることである。大衆文化にはバーゲン価格の罪悪感や正義感が溢れているように、「大衆」は罪悪感とか正義感とかにも弱いのだった。ところで、石原慎太郎が「嫌悪」した1960年代文化を山崎氏がどう論じているのかは『おんりい・いえすたでい’60s』を参照していただきたいのだが、思えばその1960年代文化の立役者のひとりだった青島幸男の〈無為の都政〉に倦んだ都民が石原慎太郎都知事としてデビューさせてしまったというのは皮肉といえば皮肉ではある。それから、右にしても左にしても、「嫌悪」やルサンティマンを梃子や燃料にして何かしようというのは、結局〈石原慎太郎〉の再生産にしかならないのだろう。

See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101209/1291915158

*1:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060410/1144636844 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060430/1146374995 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060831/1157027021 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060918/1158548179 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061106/1162827266 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061111/1163243740 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061118/1163845906 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070225/1172421318 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070306/1173200489 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070415/1176606885 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070418/1176869274 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080114/1200293046 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080305/1204725934 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080614/1213420843 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080726/1217051072 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090208/1234026998 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090706/1246825752 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091002/1254502738 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091129/1259488849 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100305/1267767495 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100419/1271645099 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100420/1271729350 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100423/1272044223 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100426/1272309085 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100606/1275759613 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100619/1276975557 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100620/1277038368 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100903/1283488570 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100925/1285387758 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101019/1287455134 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101205/1291518836 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101208/1291778596 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101210/1292006456

*2:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101121/1290309642

*3:中曽根康弘渡邉恒雄の〈旧制高校的教養〉については、鈴木直『輸入学問の功罪』、pp.159-161を参照のこと。See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100712/1278955631

輸入学問の功罪―この翻訳わかりますか? (ちくま新書)

輸入学問の功罪―この翻訳わかりますか? (ちくま新書)

*4:http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20081201/1228090616