「大夫」/「太夫」

日本民衆文化の原郷―被差別部落の民俗と芸能 (文春文庫)

日本民衆文化の原郷―被差別部落の民俗と芸能 (文春文庫)

沖浦和光『日本民衆文化の原郷 被差別部落の民俗と芸能』*1から。

和歌山県湯浅町の「北栄部落」の始祖は明応元年(1492年)にその地に住み着いた「摂州嶋上郡富田庄本照寺徒弟」の「若太夫」という者である(p.59)。
この「北栄部落」だけでなく、


各地の古い部落史料をみると、ちょいちょい「若太夫」という名が出てくる。この若太夫とは、どういう由来を持つ名前なのか。中国の律令では大夫は五位の官名をさしたのであるが、わが国では中世に入って太夫となり、広く芸能者の総称として用いられるようになった。(p.61)
「大夫」から「太夫」へ。また、「たいふ」から「たゆう」へ。中国でも日本でも「大」と「太」は区別なく使われてはいたが、「たいふ」から「たゆう」への音の変化は如何に? また、「大夫」はさらに古くは周代の諸国の公の重臣を指していた。また、日本の律令制度では〈職〉という官庁の長官(かみ)が「大夫」と呼ばれた。因みに、現代中国語において「大夫」は医者を意味する*2。通常「大」はdaと読むが、この場合にはdaiと読む。

参詣人の案内をし祈禱も行なう伊勢や熊野の下級の神職を、御師というが、彼らも太夫と称した。また、社寺に隷属して芸能に従事する者を、神事舞太夫と呼んだ。諸国を流浪しながら、門付芸・大道芸として人形あやつりをやる傀儡子は、道祖神である百太夫を自分たちの守護神とした。摂津西宮神社の小さな摂社として、今でも百太夫神社がある。中世の傀儡子は、旅路の悪霊を防いで旅人の道中を守護する道祖神である百太夫を守り神としたのだ。
その系統を引く人形浄瑠璃語りは、今日でも太夫を名乗る。格式のある遊郭の遊女も太夫を名乗った。彼女らの祖先は、上代の巫女として神事に奉仕したという伝承を引きついで、芸能では格式のある太夫名を名乗ったのだ。(pp.61-62)

賤民芸能から発した歌舞伎でも、若衆と女形太夫と呼んだ。これは、もともとアルキ巫女であり、胸に鉦をぶらさげて念仏踊りをやった「出雲阿国」以来の、歌舞伎の持っている宗教儀礼的伝統から出た呼び名であろう。
「若」には、草木の芽のように伸び盛りで元気が溢れているという意味がある。また、年若い長子を敬って、「若」と呼ぶ場合がある。歌舞伎では、太夫元は役者を統率する一座の代表であり、世襲制で興行権の所有者であった。そして、その座元の長子を、若太夫と呼んだ。
中世の遊行婦女*3や漂泊する芸人、卑賤視された散所や宿に住んでいて、街道筋を流して歩いた遊芸者たち――その統率者を太夫と呼ぶ慣習は、かなり早くからあったのではなかろうか。近世に入ると、大道芸、見世物の芸人、さらには猿曳の猿も、太夫を名乗るようになった。(p.62)
こうして著者は「北栄部落」の「初代の若太夫は、やはり熊野街道筋にいた芸人であったように思われる」(ibid.)と推測する。