東京のオリンピック(メモ)

東京オリンピックを背後で支えた国民精神総動員体制」http://d.hatena.ne.jp/kenkido/20090223
「オリンピック雑感」http://plaza.rakuten.co.jp/kngti/diary/200808190000/


桜井哲夫氏がその1960年代論において、1960年代の起点を「東京オリンピック」においていたな*1ということを思い出しつつ、「東京オリンピック」に関する2つのエントリーを読んだ。

思想としての60年代 (ちくま学芸文庫)

思想としての60年代 (ちくま学芸文庫)

最初のエントリーでは、「東京オリンピック」に向けたNHKの「国民精神総動員」的なキャンペーンに触れている。1963年頃まで、オリンピックに対する一般人の関心は低かった。そういえば、あの石原裕次郎*2が「オリンピック」について否定的なコメントをしていたのを読んだことがあるぞ。
思い出したのだが、NHKには『ふるさとの歌祭り』という番組があったのだけれど、この番組が日本の国民統合に果たした役割について論じた人っているのかしら。日本各地の郷土藝能を、それらの固有の時間的・空間的コンテクストから引き剥がして、ひとところに集めて、全国放送する。これは、ネーションを想像させる仕掛けとしてけっこうなものだったのではないか。この番組の司会をしていた宮田輝は後にその名声を背景に自民党参議院議員になった。話はずれるけれど、『新日本紀行』のテーマは作曲家としての富田勳の最高傑作のひとつなのではないか。
この時代、ラジオ局で赤旗を振り回したためにTVに左遷されたというTVの神話的時代はとうに終わっていたということはたしかなようだ。

二番目のエントリーでは、最初にレニー・リーフェンシュタールの伯林五輪映画の話が出てくる。ここでは、「東京五輪組織委員会の会長を務めた安川第五郎という人物は、戦前にファシズムにかぶれて東方会を組織し、最後には東条によって自殺に追い込まれた中野正剛と同郷であり、中学の一年後輩に当たっている」というセンテンスをメモしておく。コメント欄で、昭和天皇による開会宣言に言及している方がいたのだが、たしか色川大吉氏によると、昭和天皇は敗戦直後の全国行幸の後はさして話題にも上らず、忘れかけられた存在となっており、皇太子(今上天皇)が皇室の顔を担っていた。その昭和天皇が公的な存在として復活したのが東京オリンピックだった。
どちらのエントリーでも触れられているように、東京オリンピックはそもそも1939年開催が決まっていたが戦局悪化のために返上されたものが、戦後になって復活したものだった。文化史的・精神史的に言えば、東京オリンピックがあった昭和30年代後半(1960年代前半)は『愛と死をみつめて』のような〈純愛〉と、それから人生論の時代だったといえる(藤井淑禎『純愛の精神誌』)。この時代、戦前に活躍した亀井勝一郎*3が(死の直前ではあったが)人生論の作家として復活を遂げている。また、その後日本における人生論の大家となる加藤諦三*4のデビューもこの頃。また、亀井勝一郎とも関係の深い武者小路実篤の南瓜の絵のお皿とか小鉢とかが溢れ返ったのもこの時代では?

純愛の精神誌―昭和三十年代の青春を読む (新潮選書)

純愛の精神誌―昭和三十年代の青春を読む (新潮選書)

あと、澁澤龍彦が『快楽主義の哲学』(オリジナルは1965年刊行)を書いたのは〈人生論の時代〉への反発もあったのだろうが、その前書きで、当時の若者の保守化を嘆いていた。あの学生叛乱はあと数年に迫っていたというのに。
快楽主義の哲学 (文春文庫)

快楽主義の哲学 (文春文庫)