ブランドの死?

http://katoler.cocolog-nifty.com/marketing/2009/02/post-f5b3.html


原宿の「表参道ヒルズ」に閑古鳥が鳴いているという話から始まる。
そういえば、日本に帰る度に原宿には必ず行き、「表参道ヒルズ」の近くは通るのだが、何故か知らぬが「表参道ヒルズ」に入ったことはなかった。そうだったのか。
さて、それから「ブランド」の話になる。ただ、読んでいて、個別の諸「ブランド」の話と「ブランド」一般の話が混同されている感じがした。また、「ブランド」について語られていることについても、今更という印象をちょっとは受けたのだ。勿論、「ブランド」について語るのは難しい。例えば、所謂ラグジュアリー・ブランドとコカ・コーラのようなマス・ブランドと企業ブランドを一緒くたに論ずることができるのかとか。


(前略)何かに駆られるように、「ブランド志向」に走ったわけだが、実は、ブランドというものが何故価値があるものなのかについては、誰もきちんと説明していない。有名人がなぜ有名人なのかとえいば、有名人であるからだ、というトートトロジーがブランドの場合にもあてはまる。ブランドとは一体何なのか、その価値の源泉はどこに求められるのか問うていくと、たまねぎの皮をむくようなもので、結局最後は何も残らない。ブランド信仰を支える神学ともいうべき、さまざまなブランド理論が、これまで提出されてきたが、どの理論も評価法や価値の算定方法に過ぎず、ブランドの価値の実体を説明したものはどれひとつもない。ブランドの価値の実体とは、「空」なのだ。
石井淳蔵『ブランド』から引用してみる;

たとえば、「無印良品」に並んでいる商品を見てみよう。売場には、ノートと鉛筆がおいてある。風呂桶やポテトチップスもおいてある。セーターや自転車までおいてある。そこには、技術的な同一性(あるいは類似性)も、使用局面での同一性(類似性)もない。ノートと鉛筆は使用局面の同一性として理解できる(文房具というカテゴリーがある)が、ノートと自転車となると使用局面の同一性はまるでない。「無印良品」以外の売場ではふつう、ノートと自転車が並んで売られることはない。不思議ではないか。ノートとポテトチップスとセーターと風呂桶が、どうして「無印良品」というブランド名の下におかれているのか。それらにどのような共通性があるのか。技術や使用機能の枠を超えた商品集合であるにかかわらず、それが、どうして不自然だと思われないのか。(pp.67-68)

無印良品」によって指示される「商品集合群」が存在するが、それらが一緒に集まって存在することの根拠となるのは、ただ「無印良品」というブランドがあるからという理由だけである。「無印良品」という言葉がなくなれば、これらの製品群は一所に寄り集まる理由は一瞬にしてなくなる。「無印良品」の名前の下に集まっている商品群をあらためて風呂桶は風呂桶売場に、自転車は自転車売場に、ポテトチップスはポテトチップス売場に戻してみれば、きっとそのことはわかるだろう。その売上高の集計は、「無印良品」の名の下に売られていたときよりも大きく下がるはずだ。目に見える量でいえば、その売上高総額が下がった分だけ、「無印良品」という名前(ブランド)の値打ちだということになる。まさに、名前が商品(群)を超越し、価値が名前からつくりだされているのである。(p.71)

無印良品」は、必然的なものではない。坂道を楽々登る自転車はヤマハが開発したのだが、もし、ヤマハが開発しなかったとしても、他のメーカーが同じような自転車を開発したかもしれない。その意味で、坂道を楽々登る自転車は必然的な性格を帯びる。では、「無印良品」がなかったとしたら、だれかが「無印良品」をつくりだしえたかというと、そんな設問自体に意味がない。(略)
まさに、偶有的でありかつ他に代わりうるものがないのがブランドなのである。そうした偶有的なブランドがつくりだされるのに、必然的な理由はない。「無印良品ブランド」がブランドたりうる根拠は、ただ「無印良品」という名前だけである。それがゆえに、独自の意味世界をつくりうるのである。つまり、ブランドの本質は、「ブランドだけがそのブランドの現実を説明できる」というこの自己言及性のうちにある。それだからこそ、他の何とも代替のきかない、そのブランドにのみ固有の「創造された意味世界」が生まれる。(p.75)
ブランド―価値の創造 (岩波新書)

ブランド―価値の創造 (岩波新書)

話を「カトラー」さんのエントリーに戻す。堤清二を援用して曰く*1

堤の言い方に倣えば、個人のニーズを前提とした「個人消費」の時代が終わり、もはや個々人で微細に異なるテイストを束ねていくような「選別消費」しか残されていないということになる。だとすれば、「ブランド」も、そうしたテイストを束ねた共同体の徴(しるし)のようなものとしてしか成立しなくなるだろう。
これって、1980年代の消費社会論で散々言われたことじゃない? 山崎正和*2の『柔らかい個人主義の誕生』でもそうだし。博報堂生活総合研究所は『「分衆」の誕生』という本を出した。80年代の消費社会論はそもそも高度成長期のマス・マーケティング(誰もが買い、使うメジャーな商品やブランド)が行き詰まった前提で生まれた筈*3。メジャーでなくてマイナー。マイナーであることによって差異化すること、それが先端的だったわけだ。だからこそ、リオタールが持ち出されて、「大きな物語」ではなく「小さな物語」だということが言われた。これぞ、ポストモダンな消費社会!
柔らかい個人主義の誕生―消費社会の美学 (中公文庫)

柔らかい個人主義の誕生―消費社会の美学 (中公文庫)

ところが、バブル後半から1990年代の展開はそれを大きく裏切るものだった。既に80年代の後半から老舗ラグジュアリー・ブランドの復権が言われ始める。山田登世子さん(『ブランドの条件』*4が述べているように、老舗のブランド自体がアヴァンギャルドなデザイナーを招くというような刷新の努力を行ったということはあるかも知れない。それとともに、保守化といっては身も蓋もないが、大衆は「個々人で微細に異なるテイストを束ねていくような「選別消費」」というか、マイナーであること、差異化することに耐えられなかったということもあるのではないか。或いは、〈わかりやすさ〉を求めた。中国の女優である鞏俐*5が初めて国際的な映画祭に出席した時に、そのファッション・センスのあまりのだささに驚いたと某映画評論家が書いていたことを思い出した。その数年後、鞏俐は別の映画祭でラグジュアリー・ブランドで身を固めていて、ああ日本のコギャル並みの知恵は働くんだなと(その評論家は)思った、と。このように、老舗ラグジュアリー・ブランドに求められたのは、(センスよりも何よりも)とにかくお高いとかセレブも着ているといった〈わかりやすさ〉だったわけだ。
ブランドの条件 (岩波新書)

ブランドの条件 (岩波新書)

「人々のブランド信仰が崩壊した」という「カトラー」さんの考察が正しければ、人々は〈わかりやすさ〉への欲望を捨てたことになり、新たに1980年代が開始されることになる。さて?