「ディス・グノーシス」についてメモしつつ

清水知子「プーの低俗唯物論とディス・グノーシス」『ユリイカ』2004年1月号(特集*クマのプーさん)、pp.179-192


この中で清水さんは


Dick Hebdige “Dis-Gnosis: Disney and the Re-Tooling of Knowledge, Art, Culture, Life, etc.” Cultural Studies 17-2, March 2003, pp.150-167


の議論を紹介している(p.185ff.)。
少しメモしていく;


(前略)ヘブディッジによれば、今日のディズニー化の成り行きから抽出できるのは、全面的に顧客に向けたサービス使命を順守するレジャーのテイラー化、あらゆる他者性の飼い慣らし=家畜化、快楽からのリスクの除去の拡張であり、ディズニー企業文化を主導すべくディズニー的な物語様式が向かう先は、ただひとつ「統合」であるという。
とくにヘブディッジが光を当てているのは、こうしたディズニー化が、子ども時代(childhood)と「イノセンス」というディズニー製品・テクスト全体に一貫する要素をいかに位置づけ、いかにかたちづけているか、という点である。(p.186)

(前略)ディス・グノーシスとは、通常、グノーシス(叡智)の反対、あるいは積極的に叡智を欠くことを意味する。だが、この論文では、文化的に価値設定されたメンタリティや制度的な是認の様式を意味する。つまり、まぁいいか、といった具合に、やっかいな問題を実践的、専門的に深追いしたり、分節化したりしないようにすること。子どもじみた状態やシミュラークルを理想化するだけでなく、むしろ積極的にだだをこねたり、すねたりする幼児的な態度をかわいいものとして賞賛する知の装置であるといってもよい。
したがって、ディス・グノーシスは、「知らない」という意味の「イグノランス」とは異なる。「イグノランス」が「調理」されていない「ナマ」ものであるとすれば、ディス・グノーシスは、すでに真空パックのコンビニ・フードのごとく「調理」されたものである。ゆえに知の反対語というわけでもない。
また、ディス・グノーシスは、罪の反対語である「イノセンス」とも区別されなくてはならない。「罪がない」という意味のラテン語から発した「イノセント」という語は、そもそも英語では「無害なharmless」、「非難にあたいする罪がないblameless」という意味であり、一四世紀後半になって「単純、素直simplicity」、「狡猾さがないlack of cunning」という意味合いを帯びるようになった。「イノセンス」が、高潔な残忍さ、非の打ち所のない畏敬や精神的な驚き、幼稚な単純さ、子どものような純真性といった概念と結びつくようになるのは、その後の欧米のロマンティシズムを経てからである。こうしてディス・グノーシスは、シミュレートされたイノセンスと対比することが可能となる。つまり、ディス・グノーシスは、「シミュレートされた虚心坦懐さ」、「計算された率直さ、明るさ」に帰する「肚黒さ、陰険さdisingenuousness」という言葉によって示唆されるような、凡庸だが悪意に満ちたパラドクスを孕んだ知であるといえる。(ibid.)

ディズニー化された娯楽の空間(=非物質的労働の場)において、従業員=キャストは、人員削減、単純化作業、一時契約といったフレクシブルな関係のもとで、台本通りのキャラクターを演じることが求められる。そのために、自分の日常の生そのものともなる労働に関して自分で何かを決定することができない、「幼児化」された雇用関係にあるというのだ。さらにそこでは、経営者側=大人の論理で、あたかも大人が子どもの面倒を見る=監視するかのような図式が進行していくのである。(p.187)

さて、ヘブディッジの主張には、次の二つのポイントがある。
一つは、ディズニーの軸をなす子ども時代と「イノセンス」が、「種ミレーとされた虚心さ」からなる「ディス・グノーシス」によって構成されているということ。そしてもう一つは、大人の「幼児化」と監視の強化がセットになって遂行されていること。つまり、情動労働を管理するテクノロジーの強化と浸透である。
この二つのポイントは、ポストモダン、ポストフォーディズム期においては、もはや〈労働〉と〈遊び〉の境界線が瓦解しているゆえに、相互補完的な関係にある。つまり、実際には〈遊び〉と〈労働〉のどちらをも〈非物質的労働〉が横断している。にもかかわらず、旧来的な〈労働〉と〈遊び〉という二項対立的な思考体系のなかで〈遊び〉と〈労働〉が演じられていくために、この二つのカテゴリーがステレオタイプ化され、それによって、ディズニー化された娯楽空間は、「非政治的」な空間として自己イメージを再構築し拡張しつづけることになる。
それゆえ、旧来的な〈労働〉と〈遊び〉の暗黙の結節点にあるディズニーは、〈労働〉と〈遊び〉を「非政治化」する一つの核にありながら、その政治性を問われずに作動している。だが、そうしたカテゴリーそのものは絶えず生産され組み直し可能なものである。それゆえこの結節点を争われるものとして目に見えるようにすることは重要である。(後略)(p.188)
ヘブディッジは、未来社から出ている、あのゴミみたいな訳文の『サブカルチャー』しか読んでいない。清水さんによる「ディス・グノーシス」の紹介を読んで、かなり以前に粉川哲夫が土居健郎の『甘えの構造』を批判して、「甘え」とは〈甘える−甘えさせる〉という相互性において存立している筈なのに、〈甘えさせ(支配する)主体〉*1の存在が隠蔽されてしまっているとどこかで書いていたことを思い出したりした。「無垢」或いは「イノセンス」については、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080228/1204212786http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20081211/1229020013をマークしておく。また、ディズニーランドについては、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080415/1208260121で言及している。さらに、ディズニーについての本だと、清水さんも援用している小野耕世ドナルド・ダックの世界像』が(古いが)重要といえるか。
サブカルチャー―スタイルの意味するもの

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「甘え」の構造

「甘え」の構造

さて、『ユリイカ』の同じ号に、金井久美子、金井美恵子丹生谷貴志の鼎談「退屈とくだらなさの擁護」(pp.147-164)があって、その中での金井美恵子先生の「『星の王子さま』を上野千鶴子が「この本は私の宝物です」って言うのは、これは納得よね(笑)」という発言(p.150)。どこで言っているのか。

*1:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20081230/1230573875で仄めかしたのはそういうことだ。