国語の問題?

北海道新聞』の記事;


身近な人の死「悲しくない」10% 道教委 小中高生調査(09/04 16:00)


 道教委は四日、道内の小・中・高校生の約3%を対象に初めて実施した「命の大切さに関する意識調査」の結果を公表した。身近な人の死に接して悲しいと思ったことが「ない」とした子供が10・2%、新たな命の誕生をうれしいと思ったことが「ない」とした子供が15・8%いたことが分かった。核家族化や親せき付き合いの希薄さから人の生死に向き合う経験自体が減っていることも一因とみられ、道教委は「生命の尊さを認識させる指導を一層充実させる必要がある」と分析している。

 調査は昨年、伊達市で高校一年生が高校二年生に殴られ死亡したり、稚内市で高校生が自分の母親殺害を友人に依頼した事件が続いたことから、道教委が今年六月に実施した。道内の公立小・中学校と道立高計八十四校を抽出し、小二、小四、小六、中二、高二の計四千六百四十一人から回答を得た。

 調査の中で「家族や親せきなど身近な人が死んで悲しいと思ったことがあるか」の問いに対し、「はい」が84・3%を占めた。一方、「いいえ」と答えた10・2%の中で、最低は小四の7・9%、最高は中二の11・8%だった。

 また「身近な人で赤ちゃんが生まれ、うれしいと思ったことがあるか」の問いには「はい」が77・8%。「いいえ」とした15・8%の中では最低が小四の10・8%、最高が高二の20・3%だった。

 この二問の「いいえ」の解釈について道教委は「悲しみや喜びを感じなかったのか、身近な人の死や誕生自体を経験していないのかは分からない」(学校安全・健康課)としている。

 「命より大切なものがあるか」の問いは「いいえ」が72・2%。「はい」も24・6%あり、内訳(記述式)は「家族」「友人」など道教委が想定した「命」の範囲の回答が大半だったが、高二の1・9%と小六の1・1%は「お金」と答えた。

 道教委は調査結果を道内の公立校に配布し、道徳の授業などで命の大切さを教える時の参考にしてもらう考えだ。
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/education/47419.html

事故や災害で沢山の人が亡くなったりした場合、また天皇が1人死んだ場合でも、新聞やTV等のメディアによれば、環境は〈悲しみにつつまれて〉しまう。これは既に日本語のクリシェであって、熟達した日本語話者ならば、人の死に対する心的な反応を〈悲しい〉と自動的に記述できなければならないということになる。しかし、それはあくまでもコンヴェンションなのであって、死に対する心的反応状態が常に〈悲しい〉というシニフィアンに収まるかどうかは自明なことではない。心的な衝撃があまりに強い場合には〈絶句〉ということになるだろう。また、様々な感情が入り混じるというのもよくあることだろう。遺産が入るぞとか。(長い寝たきり状態の末に老人が死んだ場合は)やれやれとか。こういった複雑性を取り敢えず捨象して慣習的に〈悲しい〉といっているわけだ。だから、国語への叛乱を旨とする文学においては、人が死んで悲しいという表現は、非文学的なものとして却下されることになる。ということで、上の記事にある質問は、お前は日本語を常識的な意味で適切に使うことができるかという質問に思えたのだ。
上の記事を読んで、またそこから離れて、不図思ったのは、悲しさや嬉しさも含めた他人の快・不快を想像するということである。共感的想像力といっていいのだろうか。この能力は私たちがドラマや小説などを享受する前提であることは論を俟たないだろう。渡邊二郎は、ガダマーのアリストテレス解釈を要約して、「悲劇は、悲嘆と戦慄の中で、観客を、忘我奪魂の位境において、魅惑すると共に、そこで示される分裂と苦悩に充ちた生を、主人公と共に従容して引き受ける覚悟の中で、観客は、分裂という不純から解放されて、有限的生の真実を、おのれ自身の運命として、再認識し、生の深みを体験し直すわけである」と述べている(『芸術の哲学』ちくま学芸文庫、pp.97-98)。
芸術の哲学 (ちくま学芸文庫)

芸術の哲学 (ちくま学芸文庫)

また、この想像力は私たちが他人に暴力を振るうことの前提でもある。他人を殴ろうとするとき、私たちは、殴られたら相手は痛いということを想像している。そうでなければ、殴っても意味がない。その意味で、小谷野敦氏が植草一秀を批判して、

 植草は、いじめ問題に触れて、想像力が欠如しているのだ、と言う。またしてもこの種の嘘。いじめる奴は、こうすれば相手が嫌がるとか、泣くとかいうことを存分に知っているのだ。相手の痛みが分からないからいじめるのではなくて、こうすれば痛いと分かっているからいじめるに決まっているではないか。いじめる奴に欠如しているのは、「善」なのである。
http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20070902
といっているのは正しい。「善」があろうがなかろうが、他人を殴ろうとするとき、また他人が殴られるのを見るとき、私たちは自らも痛みを感じる。しかし、痛みを感じない場合もあるだろう。例えば、蠅や蚊を叩き殺すとき、私たちはいちいち蠅や蚊の痛みを想像しない。この場合、私たちと蠅や蚊の間には対照性はなく、痛みを通した共同性は存在していないといっていいだろう。さらにいえば、そこには暴力と反暴力が反転する可能性もないだろう。では、「掃除」少年*1の場合はどうなのか。
ともかく、或る心的反応を常識的に記述できる能力よりも、このような想像力の方が遥かに本源的なのではないかと思ったのだ。
ところで、「この二問の「いいえ」の解釈について道教委は「悲しみや喜びを感じなかったのか、身近な人の死や誕生自体を経験していないのかは分からない」(学校安全・健康課)としている」。これは調査票の設計ミスです。