1987年?

http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20061226/p1にて知る;


 石原千秋コム・デ・ギャルソンであること」http://www.kinokuniya.co.jp/05f/d_01/back36/no35/essay35/essay01_35.html


曰く、


  僕がはじめてコム・デ・ギャルソンを意識したのは、もう遠い昔、埴谷雄高吉本隆明コム・デ・ギャルソンをめぐって論争を繰り広げた時だ。それまでは、ただやけにお高く止まって値段が高いブランドというぼんやりしたイメージしか持っていなかった。埴谷雄高もまさに「ぼったくり」だと批判したのだった。

それに対して吉本隆明は、戦時中の悪夢のような画一的な服装に慣らされた精神を解放してくれるという意味において、ファッションを擁護した。高価すぎるといった批判にも、ファッションが身体に引き留められている以上、度を超したりはしないだろうと言ったのだった。そして、吉本自身もギャルソンの服に身を包んで、雑誌のグラビアに載ったりしていた。

  その後、鷲田清一が、特に一九九七年にパリ・コレに出品された、いまとなっては伝説的とさえ言えるような、体中に「こぶ」のあるデザインに注目したコム・デ・ギャルソン論を書いて、コム・デ・ギャルソンが身体やファッションそれ自体から遠く離れたファッションをめざしているのだと説いた。鷲田もギャルソンを着ていたと言う。

鷲田さんの論攷は安原顕編集長時代の『マリ・クレール』に連載されたもので、後に単行本の『モードの迷宮』になったものだとすれば、「一九九七年」ではなく、1987年では? また、吉本隆明が登場した「雑誌のグラビア」とは『an-an』なり。吉本と埴谷雄高の「論争」から大凡20年が過ぎたが、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060312/1142190612とかhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060313/1142279728とかを省みると、この20年間にファッションを巡る知的言説にどれだけの進展があったのやら怪しくはなる。因みに、鷲田さんは今は(体系上の理由から)コム・デ・ギャルソンは着られず、専らヨウジ・ヤマモトを着ているといっていなかったか。

僕がコム・デ・ギャルソンを着るようになったのは、ほんの偶然からだった。当時僕は東急電鉄系の短期大学に勤めていて、社員割引が利くので、渋谷の東急本店でよく買い物をしていた。ある時スーツを買いに行くと、コム・デ・ギャルソンが目に入った。目の玉が飛び出るほど高くはなかった。そこで、憧れのコム・デ・ギャルソンを買うことになったのである。その時は、それがコム・デ・ギャルソン・オム・ドゥという、ビジネススーツ系のもっともおとなしいデザイン展開のジャンルだということさえ知らなかった。
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モードの迷宮 (ちくま学芸文庫)

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