日本アカデミー賞って?

井筒和幸監督の『パッチギ!』が「日本アカデミー賞」を逃したという。それに対して、Arisanさんはぷりぷりである*1。『パッチギ!』は好きな作品なので、それは残念だと思う。Arisanさんは「資本の論理」云々とおっしゃるけれど、それもあるのだけれど、ほかの方向に目を向け換えた方が生産的というか面白いと思う。
日本アカデミー賞」という存在そのものがそもそもビンボー臭いと思う。斜陽産業になった映画業界が景気づけのためにちょっとしたイヴェントでもどうかということで、広告代理店とかTV局とかも謀議に参加して始められたものでしょ。それで、ネーミング自体が「日本アカデミー賞」ということで、最初から私はパッチモンですということを自白しているようなものだ。だから、そもそもどんくさくて、ショウ・ビズ的な美徳である傲慢なほどのゴージャスさに欠ける。大体が、「日本アカデミー賞」が始まった頃は、例えば『キネマ旬報』の評論家投票などの方が映画ファンの間では権威があったように思う。今でも、毎日や報知のような新聞社系の賞のほうが権威を持っているのではないかと思う。また、アメリカの場合、ゴールデン・グローブからオスカーにかけて、みんながどきどきしながら下馬評などをして、最後はオスカー本番のセレブ揃い踏みで締めるというのは、映画界を超えて、冬が明け・春を迎える季節行事となってもいるといえるが、当然ながら「日本アカデミー賞」にそんな趣はない。だから、「日本アカデミー賞」などそれほどのものではないということだ。
また、「資本の論理」からいってどうなんだろうか。一国資本主義というか護送船団的資本主義なら、「持ち回り」の論理もそれはそれで麗しいとはいえる。しかし、グローバル化ということからいえばどうなのか。問題は、「日本アカデミー賞」を取れば、グローバルな映画市場においてどれだけの付加価値がつくのかということだろう。当然、オスカーは勿論のこと、カンヌやヴェネツィアや伯林よりも価値が上だと思っている人はいないだろう。ただ、「資本の論理」からすれば、グローバルな市場における付加価値を高めるべく努力するというのは当然のことだろう。「持ち回り」の論理は国内市場においては合理性を有するかも知れないが、グローバルな市場においてそんなことをしていたら、賞の権威=付加価値を弱めてしまい、結局のところ、国際的な競争力を弱体化してしまうことになる。「資本」としてはそれでいいの? 『パッチギ!』はエンターテイメントとして優れており、本来メジャー系で封切られるべきものだったと思うので微妙なのだが、マイナーな映画やアーティスティックな映画ほど、その存立を、自国の大衆よりもグローバルな市場、というよりもトランスナショナルな映画ファンのコミュニティに依拠している筈だ。だから、日本アカデミー賞を逃したからといって、大したことはないということはできる。
ということで、


Arisan氏の「パッチギ!」が日本アカデミー賞でひとつも受賞できなかったことに関するエントリ

http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20060303/p2

に対して「反体制なのに賞に選ばれることを期待するのはおかしくないのか?」というブクマコメントがついているのを見て、昔大江健三郎ノーベル文学賞を受賞したときに「大江の普段の主張からしたらノーベル賞など辞退すべきだ。やっぱりヤツは偽善者だ。サルトルを見習え」というようなことを言っていた人がけっこういたのを思い出した。つうか私も言ってたかも。今だったら言わないけど。

…ってそれだけなんですけどね。関係ないですね。
http://d.hatena.ne.jp/kmizusawa/20060305/p2

ということがあるらしいのですが、そもそも「ノーベル賞」に失礼というか、私がスウェーデン人だったら、日本大使館に石を投げてるぞ。
最後に、日本アカデミー賞についてポジティヴなこと(?)も書いておこう。中国語圏のメディアの娯楽欄には、「影帝」や「影后」という文字が氾濫している*2。どういう基準で「影帝」と称せられるのか、最近気づいたのだが、日本人俳優の場合、一応日本アカデミー賞受賞が基準となっているらしい。ということで、まるっきり意味がないということではないことは、最後に付言しておきたい。

*1:http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20060303/p2 http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20060304/p1

*2:そういえば、全盛期の小室哲哉も「日本音楽天皇」と称せられていた筈。