だってさ

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100613/1276414494で、金子勝氏のAKB48への言及*1にちょこっと触れたのだが。


国民的アイドルAKB48も「興味ない」が84%

2010年6月16日(水)10時0分配信 ゆかしメディア


 国民的アイドルとなった「AKB48」だが、実際には「興味ない」(84%)が、「興味ある」(16%)を圧倒的に上回る結果となった。

 この数字は、日本テレビ系「太田光の私が総理大臣になったら・・・秘書田中。」の調査結果による。ファンにとってはショッキングな数字かもしれないのだが、これは総選挙前の結果。もし、今同様の調査をすれば、違った結果になるかもしれない。

 だが、逆の考え方もできる。AKB48は、ファン一人あたりの客単価が高いと言われているが、新曲「ポニーテールとシュシュ」は50万枚以上を売り上げているように、報道のとおり複数枚購入したファンがいるなど、実際に単価が高いことを物語っているようだ。

 総選挙は各メディアでいっせいに報道され、今は認知度は大きくアップしていることだろう。にわかファンだけに年季が足りず、単価は低いかもしれないが、全体の売上は伸びていきそうだ。
http://news.nifty.com/cs/entame/showbizddetail/yucasee-20100616-3813/1.htm

だってさ。
ところで、何時誰が「国民的アイドル」と決めたのだ? 俺は知らないぞ。かつての国民的美少女後藤久美子に失礼だろう。また、同じ頁に、「『鬼平犯科帳』『剣客商売』で知られる国民的作家・池波正太郎の魅力に、さまざまな角度から迫ります!」という触れ込みで、「没後20年特別企画 池波正太郎特集」*2へのリンクがあったが、池波先生に謝れ!

小野に関する噂(続き)

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100612/1276361557に関連して、http://blog.goo.ne.jp/rebellion_2006/e/e234f3f93c38f9efa26c2d1179331ea5を見つける。ただ、http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20100612/1276334132とかと読み比べると、その主張の主要な部分は的外れであるように思える。
さて、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100612/1276361557へのコメントから;


rna*1 2010/06/13 12:28
リンク先の小野氏のインタビュー読むまで勘違いしてました。小野氏の主張って消費税云々じゃなくて、政府が税金で(福祉ではなくて!)「新しい価値生む分野」に投資して雇用創出って話なんですね。
。。。ダメでしょそれ。この点は池田氏の天敵であるリフレ派もダメって言ってます。役人に民間よりよい投資先を見つける能力は通常ない、高度成長期に政府の産業政策が果たした役割は過大評価されている、とのこと。実証研究もあるとか。
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100612/1276361557#c1276399695

akira*2 2010/06/16 02:53
私が小野善康氏の著書を読んだ理解は以下のようなものです。不況時には公共投資を増やし、好況時に減らすことで、労働資源の浪費を回避するという視点です。不況時に余った労働力を放置しても結局、社会保障でお金だけが必要になる。ならその費用で何でもいいからさせた方がよいということ。そして好況時に人手不足になれば、公共投資を減らして民間との労働資源の取り合いを回避する。氏の著書を読む限りそのように理解しています。好況時の産業政策が非効率であったことと、不況時の労働資源の有効利用は必ずしも対立しないのではないでしょうか?
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100612/1276361557#c1276624417
私も昔小野さんの『景気と経済政策』*3を読んだときの感想ではakiraさんの「理解」に近い。なので、『産経』のインタヴュー*4を読んだときは、小野さんちょっと踏み込みすぎてるんじゃないの? とも思った。それで、rnaさんの「役人に民間よりよい投資先を見つける能力は通常ない」ということだけど、たしかに「通常」はそうでしょ。ただ、実際に「民間」が「よい投資先を見つける」ことができていないからこそ、デフレ不況なんだということになる。だから、どうせ生産諸力が遊休化してだぶついているのだから、ダメモトで政府が投資するという論理も成立するのではないか。問題は、〈武士の商法〉が失敗するリスクと生産諸力が遊休化したまま維持費のみを食い続けていくコストとどちらが大きいのかということになる。小野さんの側からの反論は、政府による投資が駄目だったら自分で「よい投資先を見つけ」てみろよ<「民間」ということになるのだろう。何故見つけられないのかといえば、多分(社会心理の問題としての)動物魂の問題*5と関係があるように思えるが、あまり詳しく論じる余裕はない。
景気と経済政策 (岩波新書)

景気と経済政策 (岩波新書)

さて、殆ど的外れといってしまったhttp://blog.goo.ne.jp/rebellion_2006/e/e234f3f93c38f9efa26c2d1179331ea5であるが、消費税増税が景気恢復に対して逆機能的であるというのは同感。勿論、消費税を実際に上げるのではなく、近々上がるぞという予期を誘導すれば、上がる前に買っちゃえという駆け込み的な需要が誘発されるだろうということはあるけれど。消費税率とか直接税・間接税の比率の問題は全く別の文脈で議論されるべきトピックなのでは? それから、法人税率を高めることは景気恢復に対して機能的な面があると思うのだが、どうだろうか。つまり、どうせ取られるなら内部に留保するよりも使ってしまえということを動機付ける。ただ、金融危機以降、レヴァレッジ取引そのものに対する懐疑や批判が強まっているが、それは企業に対しては内部留保を強く動機付け、法人税率引き下げへの圧力を強化してしまっているということはあるのだろうが。

古典こてん

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100219/1266520878 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100224/1267029840 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100303/1267593384とかに関係するか。

Stanley Fish*1 “A Classical Education: Back to the Future” http://opinionator.blogs.nytimes.com/2010/06/07/a-classical-education-back-to-the-future/


ここで、フィッシュ先生は古典教育に関する3冊の本;

Leigh A. Bortins The Core: Teaching Your Child the Foundations of Classical Education
Martha C. Nussbaum*2 Not for Profit: Why Democracy Needs the Humanities
Diane Ravitch The Death and Life of the Great American School System: How Testing and Choice are Undermining Education


をレヴューしている。
Leigh A. Bortinsはエンジニアで、「ホームスクール」の擁護者で、「ホームスクール」をする親たちに教育サーヴィスを提供するClassical Communications Inc.*3のCEO。フィッシュ先生の紹介によれば、彼女は文法、それもたんに” the study of the formal structure of sentences”という意味ではなく” the study of the formal structure of anything”という意味での文法を重視する。
哲学者のMartha C. Nussbaumは現代教育の功利主義によって「科学とテクノロジー」の「人文的側面」すなわち「想像的で創造的な側面」や「厳密な批判的思考という側面」が切り縮められていることを批判する。それはデモクラシーの健康を損ねてしまう。それは”the development of the capacity to transcend the local prejudices of one’s immediate (even national) context and become a responsible citizen of the world”としてのhuman developmentの可能性を閉ざしかねないからだ。なお、Nussbaumが人文教育のうちでも古典教育で重視するのは「論理的構造への注目」と「沢山の異なったタイプのテクストに適用することができるテンプレートを生徒に提供すること」である。また、フィッシュ先生、オバマ政権の教育政策を批判して曰く、


Unfortunately, at least according to Nussbaum, the trend toward a narrower and narrower vision of education is not being resisted by the Obama administration. Rather than decreasing the focus on testing and test preparation — a focus that reverses the relationship between test and content; the test becomes the content — “the administration plans to expand it.” Obama and his secretary of education, Arne Duncan (who, says Nussbaum, “presided over a rapid decline in humanities and arts funding” as head of the Chicago public schools), continue to implement the assumptions driving the Bush administration’s No Child Left Behind, chiefly the assumption that “individual income and national economic progress” should be education’s main goals.
歴史家で教育理論家のDiane Ravitchはかつては(上の引用で言及されている)旧ブッシュ政権のNo Child Left Behind政策の熱烈な支持者だったが、2007年に転向した。新自由主義的な教育政策に対して、以下のように批判しているという――”A faith in markets produced gamesmanship, entrepreneurial maneuvering and outright cheating, very little reflection on “what children should know” and very little thought about the nature of the curriculum.” 彼女の結論もBortinsやNussbaumと同じく、”Forget about the latest fad and quick-fix, and buckle down to the time-honored, traditional “study and practice of the liberal arts and sciences: history, literature, geography, the sciences, civics, mathematics, the arts and foreign languages.””というものである。


Leigh A. Bortinsについての話を読んでいて思ったのだが。最近インターネット上で理系の人の外国語教育に対する提案というのは多いけれど、文法中心主義の徹底を訴える人って、あまりいないような気がする。それによって物事の「形式的な構造」に対する敏感さを涵養すること。これは将来人文系に進む学生だけではなく、デザインや音楽を目指す人や工学系を目指す人にとっても有益なんじゃないかとも思う。

万博

承前*1

火曜日、遂に上海万博に行く。午前、自宅近くからタクシーに乗って1号ゲートへ。ダフ屋のおじさんから入場券を買う。セキュリティ・チェックのところでライターを没収されてしまう。そのため、この日一日、煙草を吸うのにえらい苦労することになった。浦西エリアは企業パヴィリオンが集中している場所。渡し船に乗って浦東へ。日本館の裏に着く。日本館は6時間待ちという表示が出ており、一挙に見る気を失う。亜細亜諸国のパヴィリオンを横目に見ながらたらたら歩き、会場内バスでヨーロッパ諸国のエリアへ。西班牙館のレストランPedro Lacumbeで昼食。パエリア、トルティーヤ、イベリコ豚のハムと、西班牙料理入門といった趣き。食後、伊太利館に並ぶことにする。最初3時間待ちといわれていたが、1時間ちょっとの行列で入場することができた。ただ、西班牙館のレストランでワインをがぶ飲みしていたにも拘わらず、1時間並んで、酔いは完全に飛んでしまう。伊太利館は自動車、ファッション、パスタ等の伊太利の得意産業の紹介を全面に出しており、これは博覧会展示の王道か。伊太利館2階のカフェGiottoでエスプレッソを飲みながら小一時間休憩。伊太利館を出て、ヨーロッパからアフリカ、アメリカへ。パヴィリオンの外観と並ぶ人々を見物する。その後、仏蘭西館に並ぶ。意外と空いてるじゃんと思ったが、それは錯覚で、結局2時間近く並ぶ。仏蘭西館の展示はVille sensueleというテーマに沿ったイメージ・ヴィデオを中心とする。そして、オルセー美術館のコレクションから、ロダンゴーギャンセザンヌ、ボナール等を各1点ずつ。仏蘭西館を出ると既に空は暗く、中国館の周囲をぶらぶらしたり、川辺の噴水ショーを見たりしながら、またヨーロッパ・エリアへ戻ってきて、Briccocafe*2で食事。ピザとサラダと麦酒。食事が終わると、既に浦西への渡し船はなく、浦西方面行きの会場内バスに乗って、西蔵南路隧道を通り、浦西に戻る。そこから、出口まで歩き、タクシーを拾って、自宅に戻ると、既に11時を回っていた。

浦西の会場。奥に見えるのは「日本産業館」。

中国館。

西班牙館の外壁。

伊太利館の内部(壁)。

アルヘンティナ館。

仏蘭西館から出てくる人々。

仏蘭西館。

夜の伊太利館。


上海万博とは――中国人民に行列をすることを仕込むために政府が仕掛けた規律訓練?

『遠野物語』から100年

『岩手日日新聞』の記事;


語り継ぎに決意新た 「遠野物語」100年祭 (06/14)

 柳田国男著「遠野物語」発刊100周年記念事業のメーンイベント「『遠野物語』100年祭」(遠野市主催)は13日、市民センターなど市街中心部の各種施設を会場に開かれた。このうち、記念式典は午前10時から市民ら800人余りが参加して同センターで行われ、式辞で本田敏秋市長は、遠野物語を生んだ柳田と佐々木喜善、2人を取り持った水野葉舟に謝意を表すとともに「今日を、新たな100年を紡ぐ第一歩にしたい」と集まった市民に訴えた。

 記念式典には市民のほか、姉妹都市の関係者や柳田の長男の妻冨美子さんら遠野物語ゆかりの人々らが出席。本田市長は「遠野物語の119話は、創造力豊かな先人の印であり、柳田国男が不朽の名作にした。当市は発刊日の6月14日を『遠野物語の日』と定め、永遠に語り継いでいく。古くて新しいものは光り輝く」と述べた。

 柳田国男の出身地である兵庫県福崎町の嶋田正義町長が姉妹都市を代表して祝辞を述べ、「遠野物語が伝える精神と成果はわれわれだけのものではなく、世界中に通じるものだ。発刊100年は一つのゴールだが、新たな100年の第一歩だ」と遠野市の発展に期待を寄せた。

 記念式典の第2部は「語り継ぐ人々〜『遠野物語』序文でつづる遠野物語100年」をテーマに、市内の小学生や語り部郷土芸能団体の関係者ら総勢300人が出演してステージ発表を行い、発刊100年の節目に花を添えた。

 14日は、市内各小中学校で「遠野物語の日」宣言が行われる。
http://www.iwanichi.co.jp/kitakami/item_18809.html

遠野物語・山の人生 (岩波文庫)

遠野物語・山の人生 (岩波文庫)

まさしく、「文化の客体化(objectification of culture)」! 勿論、この言葉を広く世に広めた論文である太田好信「文化の客体化 : 観光をとおした文化とアイデンティティの創造」*1でも遠野市の事例は言及されている。

*1:民族学研究』57-4、pp.383-410、1993 http://ci.nii.ac.jp/naid/110001101185