辞職の話から死刑の話へ

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090914/1252893716大澤真幸氏が京都大学を辞職したという話に言及したが、その後、当事者の名前等は明かされることなく、京都大学の教授がセクハラのため辞職したという報道があり、そうすると、状況証拠から、セクハラで辞職した京大教授は大澤氏だということになったようだ。既に大澤氏を批判する人が出たり、また逆に大澤氏は何らかの事情ではめられたという〈陰謀論〉を云々する人も出たりしているようだが、大澤氏がことの経緯・始末を、社会学省察も伴いつつ、『社会学評論』の巻頭論文*1として発表されることを期待しつつ、ここでは何も言わない。
さて、http://d.hatena.ne.jp/Mchan/20090917/1253166544は、大澤氏の辞職を記念して(?)、大澤氏が今年の3月に『週刊東洋経済』に発表したという「死刑」についての文章からまとまった引用を行っている。そこで、大澤氏は「死刑を執行する刑務官の仕事を国民からランダムに選ばれた者が果たすこと」を提案している。曰く、


死刑は殺人への刑罰だが、死刑自体がもう一つの殺人である。つまり死刑制度があるということは、誰か(刑務官)が(犯罪者を)殺人しているということ、その誰かが犯罪者と面と向かい合って殺しているということである。死刑の存置に賛成し、それが正義であると胸を張って主張するのならば、自らが殺人者(死刑執行人)になることから逃げるべきではない。誰かが「その役」を自分の代わりに果たしてくれる限りでのみ賛成だという態度はフェアではない。
これを引用した人もいうように、「大澤の意見は正しい」とは思う。〈民主国家〉*2である以上、死刑は〈国民〉の名の下に行われている、つまり私もあなたも〈国民〉を構成する1人として、はんこを捺す法務大臣や実際に手を下す刑務官に仕事を委託する仕方で、死刑に手を染めている。にもかかわらず、そのことは意識されない*3。この方の意図とはかなりずれるが、付け加えるべきことは、こうした平穏な生活のためには〈殺生〉(死刑)が必要だが自分で手を汚すのは嫌だという心性は、歴史的には〈差別〉と結びついてきたということだ。勿論、ここでいう〈差別〉は(少なくとも脱魔術化があまり進んでいない社会においては)両義性を帯びたもの、つまりみんなのために〈殺生〉(死刑)を行う者は一方で〈穢れ〉を背負った者として周縁化されるとともに、他方では生と死、この世とあの世等々を媒介する常人にはない力を持ったものとして、畏怖の対象ともなる。さらに、これは日本に限ったことでもない。阿部謹也*4『刑吏の社会史』が描いているように、ヨーロッパ社会でも罪人をあの世に送る「刑吏」はずっと差別の対象とされてきたのだ。
刑吏の社会史―中世ヨーロッパの庶民生活 (中公新書 (518))

刑吏の社会史―中世ヨーロッパの庶民生活 (中公新書 (518))

ところで、『読売』の記事;

全身18か所2時間…薬物注射で死刑執行、失敗

 【ロサンゼルス=飯田達人】米オハイオ州の刑務所で薬物注射による死刑を執行しようとしたところ、注射針が死刑囚の血管にうまく入らず、執行が延期される異例の事態となった。


 弁護側は州法などに違反したとして執行中止を求めている。

 AP通信によると、ロメル・ブルーム死刑囚(53)は1984年に14歳の少女を刺殺し、死刑が確定。執行は15日午後2時から始まった。

 ところが、刑務官らが右腕の静脈に注射針を挿入したところ、血管が収縮して失敗。その後、左腕や両足、かかとなど計18か所に約2時間にわたり針を刺そうとしたが、うまくいかなかった。

 刑務所長が執行の最終権限を持つ州知事に電話し、知事は1週間の執行延期を命じた。血管の収縮は、水分を十分取らなかったことによる脱水症状が原因との見方が出ている。

 弁護側は18日、「迅速で苦痛のない執行」を規定した州法や、「残酷で異常な刑」を禁じた連邦憲法に違反したとして執行中止を連邦地裁などに求めた。同地裁は執行の一時停止を命じ、28日に州と弁護側の意見を聞く審問を開く。
(2009年9月19日19時25分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20090919-OYT1T00807.htm

そういえば、〈捕鯨反対論〉の根拠のひとつは、鯨を一瞬にして「迅速で苦痛のない」仕方で殺すことができないということであった*5

身元確認

承前*1

『朝日』の記事;


「しんちゃん」作者の臼井さん、死亡確認 絶壁の岩場

2009年9月20日23時7分



 群馬・長野県境の荒船山(標高約1423メートル)で19日に発見された男性の遺体は、人気漫画「クレヨンしんちゃん」の作者・臼井儀人(うすい・よしと〈本名・義人〉)さん(51)=埼玉県春日部市=であると確認された。群馬県警が20日夜、発表した。遺体は同日午後、県警がヘリコプターで収容し、下仁田署に搬送。歯型や遺留品などから身元が判明した。

 同署によると、遺体は群馬県下仁田町南野牧の荒船山にある台地状の岩「艫岩(ともいわ)」の頂上から約120メートル下の岩場で発見された。損傷がひどく、Tシャツや下着の一部が残っていたという。検視の結果、全身を強く打っており、遺体の状況や足取りから死亡したのは11日午後とみられる。家族や出版元の双葉社(東京都)の社員も遺体を確認した。

 遺体の周辺からは臼井さんのリュックサックや携帯電話なども見つかった。登山中に転落した可能性が高いとみているが、さらに慎重に調べを進める。

 県警の調べでは、臼井さんは11日午前9時50分ごろ、上信電鉄下仁田駅で下車。タクシーに乗り、荒船山の登山口の一つ「内山口」(長野県佐久市)で同10時半〜11時ごろ降りたのが確認されている。

 艫岩は約200〜300メートルの絶壁が南北約2キロにわたって広がる台地状の巨岩。頂上から見える絶景が人気で、群馬、長野県側からの登山ルートは一般客でも1時間半ほどで登れるという。

 臼井さんは11日、「荒船山に登山に行く」と家族に伝えて自宅を出た。同日夕に帰宅予定だったが戻らないため、家族が12日に捜索願を出していた。
http://www.asahi.com/national/update/0920/TKY200909200151.html

そういえば、私も中学生の頃に山で崖から転落したということがあった。とはいっても、名もなき山。その頃、親戚が静岡市の安倍川を渡った辺りに住んでいて、夏休みに新幹線に乗って遊びに行った。親戚の家から歩いて数分のところに裏山があって、茶畑や蜜柑畑になっていた。その裏山をどんどん奥に進むにつれて、辺りは茶畑から薄暗い林になってきた。そうこうしているうちに、大きな蜘蛛の巣に遭遇し、巣を避けようとして身体を捻ったら、足を滑らして、5米か6米の急斜面を転落してしまった。肘を擦り剥いたくらいで、別に大事には至らなかったのだが、それよりも困ったのは、尾根道から転落という仕方で外れてしまったために、どうやって戻ればいいのかわからなくなったいうことだ。崖をよじ登って元の道に引き返すこともできない。ともかく下へ行こうと思った。途中どのように下ったのかは全然憶えていないのだが、タクシー会社の車庫みたいなところに辿り着いた。そこには、従業員の福利厚生用に、普通の自動販売機よりも10円か20円安いコーラの自動販売機があって、コカ・コーラを買って、飲んだ。人里には下りられたものの、ここから親戚の家にどうやって帰ればいいのかわからない。安倍川を目安にしようと考え、そこから河原の土手まで数百米歩き、さらに土手を下流の方向に2kmくらい歩いて、全身泥だらけになりながら、ようやく親戚の家に辿り着いたのだった。

「不平等」と「格差」の語られ方(メモ)

白波瀬佐和子「いま不平等を語ること」『UP』443、2009、pp.6-11


白波瀬氏は「不平等」と「格差」と「貧困」では語られ方が異なるという。


不平等と聞くと、ニートやワーキング・プア、貧困に引きこもり、といったように具体的な一場面を想像されることが多い。不平等と格差、そのふたつの言葉に人びとが抱くイメージは異なる。不平等は、世の中の不条理が具現化された事象に結びつくことが多く、そこではミクロな個別事例が想定される。一方、格差は不平等よりも測定可能性が強調され、良し悪しの価値判断に幅がある。その幅を測るにはある程度の距離が必要であるので、格差があることに人びとが目覚めた頃には、勝ち組・負け組の間で自分自身のいない物語としての格差論が展開されていた。それはあたかも川の向こう岸を眺めるがごとく、当事者のいない他人事としての位置づけが見え隠れした。
不平等でなくて、格差、そこにひとつの鍵がある。格差とは格付けされた差であるので、「違い」「差」自身に価値が介入する。何がよくて、何が悪いのか。二引く一が一であることに、意味が付与される。それが格差である。一の意味がそれくらい大きくて、どれくらい致命的であるのかの確固たる指標が必ずしもあるわけではない。物事の良し悪しの判断は絶対的でなくて相対的である場合が多い。違いとは、何かと比べることであるから、相対的な概念なのである。ものが食べられない、衛生的な場所で休むことができない、病気を治すため医者にかかることができない等は、疑いなく許されるべきことでない。貧困は、こんな絶対的な「許されるべきでない状況」として捉えられる(岩田 二〇〇七*1)。だから、貧困を語る際、個別事例が強調されるし、それ自体への評価が分かれない。(pp.9-10)
「格差から貧困へと関心が移るなか、傍観者的な格差論から当事者を強調した貧困へとそのアプローチは大きくシフトする」(p.10)。しかし、

当事者であることは何よりも説得力があり、強烈だ。当事者からのメッセージは心に響く。しかしその一方で、みなが当事者になりえないことも事実である。当事者を強調しすぎることは、当事者になりえないものを排除することにも通じる。(ibid.)
といわれる。これはわかりづらいが、「当事者」或いは「ミクロな個別事例」に拘泥していると、「全体」が見えなくなるということであるようだ。曰く、

高齢女性の一人暮らしの貧困率が高いことは事実であるし、幼い子のいる世帯の貧困率が上昇していることも確かで、母子世帯の就労率が高いにもかかわらず高い貧困率を呈していることも事実だ(白波瀬 二〇〇九*2)。ただ、貧困にある子どもがすべて母子家庭にいるわけではなく、母子家庭の数自体が欧米に比べて低い日本では特に、二人親世帯の子どもの貧困率は無視できない。(ibid.)
ところで、「ニートやワーキング・プア、貧困に引きこもり」。「引きこもり」を前3者と並列に並べるのはどうか。

*1:岩田正美『現代の貧困――ワーキングプア/ホームレス/生活保護

*2:白波瀬佐和子『日本の不平等を考える――少子高齢社会の国際比較』