殴るTVディレクター

http://d.hatena.ne.jp/iDES/20061031/1162305465


取材するジャーナリスト、フィールド・ワークする学者がインフォーマントに感情移入するというのはよくあるし、私も経験がある。上の記事、元ネタは『週刊ポスト』の記事で、さらにそれは「引きこもり更生施設」「長田塾」による暴行事件を巡る裁判での被害者本人の証言と被害者の母親への取材に基づいている。事件が起こった2001年当時、「長田塾」にはNHKの取材が入っていた。被害者を主人公としたドキュメンタリーを撮影するために。両者の証言によれば、そのNHKのディレクターは、「長田塾」を「脱走」した被害者を殴り、被害者を拉致して、「長田塾」に連れ戻したという。
最初読んだときは、つまりオウムを取材していたジャーナリストなり学者なりが、教団或いは麻原に感情移入してしまった余り、一緒にサリンを撒いちゃった*1というようなものだなと思った。しかし、もう一度読んでみたら、そんな大層なものでもなさそうだ。勿論、「長田塾」の頭目である長田百合子が「脱走」した被害者の拉致をこのディレクターに依頼しているくらいだから、このディレクターは「長田塾」との間に(人によっては過剰というかも知れないほどの)信頼関係を構築していたとはいえる。しかし、被害者がそのドキュメンタリーの主役であったことを考えると、ここで主役に逃げられたら進行中の企画がパーになるぞというムカツキの余り、暴行に及んだという方が妥当なのではないかと思えた。井出草平さんは「中立である報道の人間が「ひきこもり」であるという理由で青年を殴っていたことになる」と述べているが、少なくとも引用された限りの『週刊ポスト』の記事からは、そういう動機までは推定できないぞと思った。
それにしても、証人を信じる限り、このディレクターが拉致にコミットメントしているのは事実なのである。

*1:勿論、これは下手な喩え話であり、実際にそういうことをした人はいない。

Terra-cotta warriors

暫く前にある独逸人が西安兵馬俑に化けて警察に捕まったという事件があった*1


JI Shaoting “Terra-cotta warriors inspire production of female replicas” Shanghai Daily 17 October 2006


既に半月くらい前のニュースだが、ノルウェーのアーティストMarian Heyrdahlが70体の兵馬俑のレプリカを制作中である。それも”female form”で。曰く、”Everyone of them has a personality and each is telling a story. I made them to express my love for peace, as women suffer the most in war.” Marian Heyrdahlさんが兵馬俑と出会ったのは、5年以上前に西安に旅行して、観光土産として売られていた兵馬俑の等身大のレプリカを買ったときである。兵馬俑の装束が”looks like a woman’s skirt”と思ったという。
なお、Marian Heyrdahlさんは、あの「コンティキ号」で有名な考古学者/探検家のThor Heyrdahl*2の娘さんである。
また、Cityweekend October 26 2006、p.7のベタ記事によれば、このレプリカは2007年2月に北京のギャラリー”Space 798”で展示される。

ところで、このニュースと同じ日のShanghai Dailyに載っていたXinhua “Heritage listing for writing tools”という記事によれば、所謂「文房四宝(Four Treasure of the Study)」、すなわち筆(brush)、墨(ink stick)、紙、硯(inkstone)をUESCOの世界無形文化遺産*3に申請しようという動きがある。紙と墨で知られる安徽省宣城市、筆で知られる浙江省湖州市、硯で知られる広東省肇慶市と安徽省歙県が共同で申請するという。

deepとshallow

ある人がMixiの日記でdeepとshallowということを書いている。deepといってもDeep Purpleともdeep throatとも関係がなく、例えば海外旅行に出かけた時に、shallowな人はファスト・フードで済ましたりするが、deepな人は現地人の生活に深く入り込み、現地人が食している物を経験しようとするといったような話。これは例えばアカデミックな態度でいえば、エスノグラフィにおけるthin descriptionとthick descriptionの差異に対応するかも知れないけれど、ちょっと別のことを考えてみた。
もしかしたら、ある文化、自分がネイティヴであるような文化にどっぷりとdeepに浸かっている人からすれば、海外旅行に行ったくらいで現地人の生活に入り込んでしまうというのは甚だshallowな態度に見えるかも知れない。とすれば、上の話におけるdeepとshallowは逆転してしまうかも知れない。実際、どこの国でも(価値判断は抜きにして)〈田舎者〉ほど食べ物その他の文化的ヴォキャブラリーは狭いといえるだろう。都市においてこそ、相対的に広くて浅い文化的ヴォキャブラリーを得る可能性が高まる。そういうのは、狭くて深い文化的ヴォキャブラリーを生きている〈田舎者〉から見れば、たんなる軽佻浮薄に見えるということになるだろうか。また、都市において「広くて浅い文化的ヴォキャブラリーを得る可能性が高まる」、さらにはそれをよりdeepにすることも可能だといっても、そのためにはそれ相当の経済的資源はもとより人生のかなり早い時期に贈与される文化資本も必要である。そうでない場合、都市にいながら、かなり狭い文化的ヴォキャブラリーを生きざるをえないということになる。こういう人は〈都会の田舎者〉ということになるのだろうが、この狭い文化的ヴォキャブラリーに食物で対応するのは、種々のファスト・フードだったり、或いはジャンク・フードと蔑まれているものだったりする。このような人の場合、海外旅行に行って現地の食べ物には見向きもせずにファスト・フードで済ませるというのは、shallowどころか、実は実は、それで相当にdeepな振る舞いなのではないかと思った次第である。

文学を「道徳」に還元する態度


 小堀桂一郎「「教育再生」は国語力養成から」http://www.sankei.co.jp/news/061031/sir000.htm


さすがの森林太郎の遺伝子も孫の代ともなれば、些かの劣化は致し方ないことか。よく鴎外と漱石は並べられて言及されることがあるが、孫の代についていえば、漱石の勝ちということになる。
ただ、このテクストはたんなる爺の繰り言、或いはほかの人の言葉を借りれば「保守派の寝言」*1以上のものなのかも知れない。多分、右の人にとって、人々を何かしらの共同体的なものの下に統合せんとするコミュニタリアンな方向性*2市場原理主義というかネオ−リベラルな方向性の間を如何にして架橋して統合するのかというのは重要な思想的課題である筈だ。小堀は(それが成功しているかどうか、そもそも成功しうるかどうかはともかくとして)、福沢諭吉を援用しつつ、〈架橋〉を試みている。曰く、


 そのための思想的武器として今改めて推奨したいのが福澤諭吉の『学問のすゝめ』といふ古典的教育論である。これは教員養成課程での必読の教科書として採用を要請したい。その心は、児童の知育・徳育の達成度を測るに際しては誰憚(はばか)ることなく競争原理を取入れよ、といふにある。努力する者のみが自分の人生の質を高めることができるのだ、との道理を子供の脳裡に叩き込むこと。それが畢竟(ひっきょう)生徒達の将来の生の充実を約束する指針たり得るのである。
ところで、それに続けて、小堀は言う;

 古典的名著の名を挙げたついでに言ふ。教育には目標の手近なる具体性が実に重要である。「人格の完成」とか「個性の尊重」とか、況(ま)してや「真理と平和の希求」などといふ雲をつかむ様な観念的な謳ひ文句は教育上明らかに有害である。折から10月30日といふ奉戴記念日を迎へて、「教育勅語」の説く如き〈父母に孝に兄弟に友に夫婦相和し朋友相信じ恭倹己を持し…〉の格率の持つ具体性がどんなに教育的に有効であつたか、痛切に思ひ起される。

 この意味で、人生の価値の最高の範疇(はんちゅう)を説くに際しても、それを「真・善・美」といつた西洋渡りの抽象的で定義困難な観念に求めるのではなく、「正直・仁慈・勇気」といつた具体性を以て示す方が有効である。これは実は「鏡・勾玉(まがたま)・剣」といふ三種の神宝に象徴される日本民族の蒼古の昔からの徳の範疇なのだが、神宝は所詮(いわゆる)象徴なのだから、これらは「正義・柔和・決断」とも、或いは「無私・敬虔(けいけん)・英知」等と適宜幅を持たせて読み替へることができる。いづれにせよこの神宝の教へを奉ずることによつて、我が民族が如何に美しく又内容豊富な歴史を形成することができたか、その事を子供に向つて説くによろしき教材は古典文学の遺産の中に無限に豊富に蔵されてある。

ここでいう「神宝の教へ」というのは、管見によれば、伊勢神道由来の神話解釈であり、さらに言えば神道の衣を被った朱子学であり、つまりは〈漢意〉に属するものじゃなかったかというのはさて措く。kaikai00さんは「教育を瀕死の状態に陥れた加害犯人は、日教組でありゆとり教育であるとすることで、それを取り除けばよいという子ども騙しの、短絡的な解決策を提示し、その後で、古典というノスタルジックな世界へと逃げ込むことで現実の問題を抽象化し、そこでもまた短絡的な解決策を提示してみせる」と批判している。私の疑念はちょっと違う。小堀はさらに

教育に於ける具体性原理の実践として、初等・中等教育では昔ながらの「読み・書き・そろばん」(算盤(そろばん)は基礎的計算力の比喩(ひゆ)である)を最重要視すること。国語では、初等段階に平易な纂訳(さんやく)を用ゐることは構はないが、必ず古典に典拠を有する教材(例へば昔話)を以て読本を編むこととし、現代作家の作品や評論の類は心して避け、なるべく人物の伝記を多く取入れることである。それが又間接的に道徳教育の役割を果す。総じて子供には国語力さへ十分につけてやれば、基礎教育の九割は成就したと見てよい。国語の文章を自在に読みこなす力さへあれば、算数・理科・地理・歴史のいづれも、然るべき教科書を与へてやるだけで、子供はそれらを各自の興味に応じて自分で読みこなしてしまふであらう。教室での教師の負担はその分だけ軽減されるのである。
と書いているが、「古典文学」を「道徳教育」の手段に貶めるような人物が「文学者」を名乗ることの是非である。このような態度は、必ずや「古典文学」を痩せ衰えたものにしてしまうだろう。そして、「古典文学」はつまらないものと見做され、伝統というか古人の思惟や活動の痕跡たる「古典文学」と現代人との間の溝はさらに深くなるだろう。
さて、小堀が推奨している石井勲という人については知らなかったのだが、http://www.konotori.kindai.ac.jp/kindergarten/education/kanji.htmに短いながら、紹介が載っている。また、生前の石井勲氏が理事長を務めていた「日本漢字教育振興協會」*3というのがあるらしい。

*1:http://d.hatena.ne.jp/kaikai00/20061031/1162248886

*2:申し上げておくが、コミュニタリアニズムそれ自体を〈右〉であると断言するつもりは全然ない。

*3:http://www.kanji-kyoiku.com/index.html

白川静

Mixiで知った*1
あと数年で白寿だというのに。
取り敢えず、『朝日』と『読売』の記事をクリップしておく;


中国文学者の白川静さん死去 著書に「漢字」「孔子伝」
2006年11月01日

 漢字研究の第一人者として知られ、文化勲章を受章した中国文学者で立命館大名誉教授の白川静(しらかわ・しずか)さんが10月30日午前3時45分、多臓器不全のため京都市内の病院で死去した。96歳だった。1日に近親者で密葬を営んだ。お別れの会を開く予定だが、日取りは未定。自宅は公表していない。連絡先は立命館大総務課(075・813・8137)。


 1910年、福井市洋服店の次男に生まれた。小学校卒業後、大阪の法律事務所に住み込みで働きながら夜学へ通い、35年、立命館中学教諭に。在職しながら立命館大を卒業、同大学予科を経て81年まで文学部教授を務めた。96年度朝日賞。98年に文化功労者となり、04年に文化勲章を受章した。

 若いころから「詩経」に魅せられ、中国文学の研究を志した。詩経は紀元前9世紀ごろ、民衆が自らの感情を歌った最古の中国古典。正確に理解するため、最初期の漢字である甲骨文字や金属器に刻まれた金文を研究し、その成果が代表的な研究書の「説文新義」「金文通釈」に結実した。

 これらの研究をもとに漢字の字源辞典の「字統」、漢字が日本でどのように読まれてきたのかを分析した「字訓」、そして漢和辞典の「字通」が生まれた。前例のない「字書3部作」。独力で完成させたのは86歳の時だった。

 理事長を務めた文字文化研究所主催の「文字講話」を99年から始め、90歳を過ぎても約2時間の講演を立ったままこなし、漢字の成り立ちや東洋の精神を分かりやすく説いた。

 文明論的な関心も深く、日本の古代民衆の詩的世界、万葉集との比較にも力を注いだ。白川静著作集(全12巻)をはじめ、「漢字」「孔子伝」など多数の著書がある。
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200611010389.html


漢字研究一筋、独自の文明論─白川静氏が死去

 科学的手法で漢字の成り立ちや意味を調べ、「字統」「字訓」「字通」の字書3部作などで知られる中国古典文学者で文化勲章受章者の白川静(しらかわ・しずか)氏が10月30日、死去した。96歳だった。告別式は1日、近親者で済ませた。後日、「お別れの会」が開かれる。


 福井市出身。洋服商の二男に生まれ、小学校卒業後、大阪の法律事務所で住み込みで働きながら夜学に通って20歳で中学を卒業、立命館大専門部(夜間)文学科で勉学を続けた。その後中学教員をしながら同大学法文学部に入学、1954年、同大学教授となった。

 一貫して漢字研究に携わり、中国最古の文字である甲骨文字をはじめ漢字文化圏の古典を丹念に読み解いて独自の文明論、通説への批判精神に満ちた「白川文字学」を樹立した。

 旺盛な研究欲は生涯尽きず、76年に立命館大を定年退職後も特別任用教授として教育研究に従事。70歳で退いてから13年の歳月をかけて計4000ページを超える前人未到の字書3部作を独力で完成させた。

 漢字の形や意味の変遷を系統的にまとめた「字統」(84年)、漢字の訓読みが日本で定着する経緯をたどった「字訓」(87年)に続き、96年、集大成としての漢和辞典「字通」を刊行。孤高の碩学(せきがく)としての地道な研究成果が一般的に知られるようになり、91年に菊池寛賞を受賞、98年、文化功労者となり、2004年に文化勲章を受章した。1981年から立命館大名誉教授。
(2006年11月1日22時20分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20061101it13.htm?from=top


文字を語れば止まらず…「翁」と称さず白川静

 「『生』きるという字はね、草木が生い茂る様子を表しています。もっと茂ると『世』になる。つまり、一代という意味ですな」。


 先月30日に亡くなった中国古典文学者の白川静さん(96)は、ひとたび文字について語り出すと止まらなかった。次から次へと字を分解し、歴史的背景を語り、自らの考証を加え、だれにでも分かりやすく説明した。

 立命館大学卒業は33歳の時。苦学を重ね、たった一人で母校で研究を切り開いてきた。「大学研究室で仕事をするという私の生活習慣を破壊する権利はだれにもない」と、大学紛争の真っ最中も閉鎖されたキャンパスに黙々と通った。

 大学を離れてからは、京都・桂離宮近くの自宅で漢籍と向き合う日々。字書三部作が数々の賞を受け、東京で授賞式に出席する機会が増えても、必ずその日のうちにとんぼ帰りして、翌朝から書斎にこもったという。

 90歳を過ぎ、次の目標を尋ねられれば、「今やりたい仕事を片づけるには、あと20年はかかる。松尾芭蕉は30歳代で『翁』と称したというが、私はこの年でも『翁』と書いたことはありません」と、朗らかな笑い声を響かせた。

 その言葉通り、精力的に活動を続け、94歳の04年10月、中国文字の金文(きんぶん)をテーマにした「新文字講話」(年2回、全4回)を開講。05年には出身地の福井市、さらに京都市の名誉市民になった。
(2006年11月1日22時3分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/national/culture/news/20061101i515.htm?from=main5

どうでもいいことだが、ハンナおばさんが生まれた4年後には白川先生は生まれていたんだということを思った。それはともかくとして、白川先生は私を中華世界へと誘惑した主なひとりなのだった。