「ボートシアター」があった

『神奈川新聞』の記事;


ハマスタ近く 中村川の「最後の」不法係留船 撤去へ

社会 神奈川新聞  2020年01月10日 21:41


 東京五輪パラリンピックを今夏に控え、県は、会場となる横浜スタジアム横浜市中区)付近の中村川*1で長年不法に係留されている船1隻を撤去する。沈み始め、危険性が高まっているが所有者が不明なため、県が河川法に基づき「簡易代執行」として、7130万円と見積もる撤去費用を肩代わりする。県は関係機関と連携し、河川で安全面や景観面での対策を進める。

 中村川を所管する県の横浜川崎治水事務所によると、この船は少なくとも1997年ごろから、JR石川町駅近くの中村川に架かる「西の橋」近くに係留されている。全長33・5メートル、幅9・2メートルで、これまで事務所などとして使われ、護岸には無断ではしごが取り付けられていた。

 男性の出入りが確認されていたが、4年前から無人になり、所有者が分からない状態。船は川幅の半分近くを占める上、沈み始めているため、危険なだけでなく水上交通の妨げとなっている。

 撤去作業は3月末までの予定で、現場で解体して搬送する。所有者が判明した場合は撤去費用を全額請求する。

 県は撤去後、横浜中華街や元町などの観光地に近い立地を生かして、石川町駅前の中村川に親水施設を整備する方針。横浜港や羽田空港などから観光船などで利用できるなど、水上交通のさらなる活用が期待されている。今後は横浜水上署などと連携し、河川を利用する船や水上オートバイなどに対して指導や警戒を強化する。

 中村川には戦後、水上ホテルなどに使っていた船などが多く係留されていたが、現在残るのはこの船のみとなっている。
https://www.kanaloco.jp/article/entry-240266.html

横浜の中村川といえば、横浜ボートシアター*2の「ふね劇場」があったけれど、それは1995年に沈没した。「1997年ごろから」ということは「ふね劇場」の消失以降にやってきたわけだ。その後、鋼鉄製の「ふね劇場」が再建されたが、中村川にはないようだ;


檀原照和「「横浜ふね劇場をつくる会」、活動を終了」http://yokohamamerry.jugem.jp/?eid=275
一宮均「横浜から新しい波は起きたのか」https://www.nettam.jp/about/tam/16/


また、遠藤啄郎のインタヴューを見つけたのだが、「ふね劇場」の起源が語られていた*3


—横浜ボートシアターは、1981年の結成から37年にわたり、横浜に浮かぶボートを創作の拠点としています。どういったきっかけで、こうした独自の活動に至ったのでしょうか?

遠藤:元々は、劇場がほしかったんですよ。日本では、「稽古場も劇場も借りる」という活動のスタイルが一般的ですが、横浜ボートシアターを結成する前の劇団でヨーロッパツアーをしたときに、海外の劇団は自分たちの劇場を持ち、そこで稽古や公演をすることが一般的であることに気づきました。けれども、日本では経済的な問題から実現は難しかった……。

そんなとき、石川町の駅前にアメリカ人が木造の船を使って開いていたブティックが沈んでしまったんです。地元の人たちと一緒に引き上げたところ、彼が「もう船は要らない」と言う。「じゃあ売ってよ」と言ったら、30万円で売ってくれた。安かったですね(笑)

「ボート」という空間;

—ボートという特殊な空間で作品を作ることは、創作にどんな影響を与えるのでしょうか?

遠藤:ボートを係留している陸と海の境目は、「旅に行き、旅から帰ってくる」ときの接点となるドラマティックな場所です。そこでドラマを上演すると、観客にはさまざまなイメージが喚起される。これまで横浜ボートシアターでは、アフリカ、インド、日本などの古い物語と現在をつなげていくことをテーマにした作品を作ってきました。私的な世界を生み出したり、社会風刺をしたりするだけでなく、「過去と現在を結ぶ場所」としての劇場をイメージしているんです。

—船という非日常的な場所で、過去と現在が結びつくんですね。

遠藤:木造船で初めて上演したのはエイモス・チュツオーラ(20世紀に活躍したナイジェリアの小説家)の『やし酒飲み』(1952年)という作品でした。そのときは、お客さんが入ると、出入り口に釘を打ち付けて塞いでしまったんです。そして、エンジンをかけて、劇団員みんなで外から船を揺らします。そうすると、お客さんは「出航したのか!?」と、びっくりしていましたね。

—船を使った作品ならではの演出ですね(笑)。

遠藤:劇場を揺らすなんて他の場所ではできません(笑)。そして、エンジン音が止まり、芝居が始まる。この作品は、とても好評でしたね。

やし酒飲み (1981年)

やし酒飲み (1981年)