或いは音楽評論家の終焉?

北濱信哉「FMラジオから歌が消えた? 音楽よりもトークが多く放送されるようになったワケ」http://realsound.jp/2013/10/fm.html http://realsound.jp/2013/10/fm_2.html


曰く、


現在、東京で聴取できる民放FM局はTOKYO FMJ-WAVEInter FM、それに神奈川のFM YOKOHAMAと埼玉のNACK 5、千葉のbay fmを加えた計6局。しかしいずれのチャンネルにダイヤルを合わせても、聞こえてくるのはパーソナリティのトークが中心で、音楽は申し訳程度に添えられているだけ。新譜情報やレコメンドミュージックといったコーナーの多くは姿を消し、なかにはお笑い芸人をパーソナリティに据えたAM局のような作りの番組も増えてきている。そう、FM局は音楽中心の編成からトーク偏重の編成へと変わってきているのだ。

 一体なぜこのような事態が起きているのか。あるラジオ関係者はこう語る。

「FM局は元々、音楽を知るためのメディアとして人気を博しました。聴取率(テレビの視聴率のようなもの)の上位を占めるのもカウントダウン番組やいち早く新譜を紹介する音楽番組だった。しかし、レコード会社やミュージシャン自らが運用する公式YouTubeアカウントなどの登場により、FM局の強みであった即時性が失われてしまったのです」

 音楽の情報を知るすべが多様化した結果、FM局の専売特許であった音楽番組の人気は低迷。聴取率のとれない音楽番組ではスポット広告が売れないため、結果的に安定した数字の見込めるトーク番組が増えてきているというのだ。
http://realsound.jp/2013/10/fm.html


また、広告売上の不振は別の形でもFM局の編成に影響を与えている。前述のラジオ関係者は言う。

「ラジオ広告にはスポット広告の他にタイム広告、すなわちスポンサー提供のいわゆる冠モノがあります。タイム広告のスポンサー企業は当然、自社の製品やサービスを番組内で紹介したい。しかし音楽番組ではその余地が非常に少ないのです。一方でトーク番組なら会話の中に自然な形で宣伝を織り交ぜることができます」

 広告収入が低迷するなか、スポンサー企業の獲得はラジオ局にとって至上命題。そのためにもクライアント受けのいい「スポンサーに寄り添った形」のトーク番組が量産されるようになったのである。
http://realsound.jp/2013/10/fm_2.html

これも何で今更? という感じがする。2005年に出た『Jポップとは何か』*1で、烏賀陽弘道氏は、紐育のマンハッタンだけで70のFM局があること(p.182)に対比して、

一方、東京圏で聴取可能なFM局はせいぜい十局だ。しかもどの局も内容にそれほど大差はない。トークが多くて音楽が少ない。音楽はヒットチャートものが多い。コンテンツの多様性では、ニューヨークには遠く及ばない状態が長く続いている。こうした環境では、商品として音楽を買うことだけが音楽へのアクセス手段になってしまう。言い換えれば、お金がなければ、音楽にアクセスする機会が極端に少なくなる(有線放送やCS放送はFMに比べてコストがはるかに高い。貧乏か金持ちか、所得によって音楽へのアクセスに差が出る。(pp.182-183)
と述べている。つまり10年近く前からそうなのだ。さらにそれが酷くなったということなのだろうか。「レコード会社やミュージシャン自らが運用する公式YouTubeアカウントなどの登場」というのは、烏賀陽氏のいう「お金がなければ、音楽にアクセスする機会が極端に少なくなる」という事態を少しは改善しているのだろう。その結果、FMが食われた。
Jポップとは何か―巨大化する音楽産業 (岩波新書)

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でも、私たちは「新譜」だけをラヂオに求めているわけではないだろう。アーカイヴの力というか、コレクションの力というか。誰も持っている「新譜」よりも、古い曲、特に自分では到底持っていないだろうレアな音源を求めるとか。また、DJによる選曲のセンスを味わうということもあった筈だ。どういうことを言いたいのかというと、ここで言われているFMの危機というのは、逆に言えば、FMを「即時性」への呪縛から解放するチャンスであり、そこから膨大な音源のコレクションの可能性を生かしたり、曲の新旧を問わず選曲の妙を競うという進路を指し示しているのではないかということだ。
かつては選曲の妙を競うこととか、局のアーカイヴで宝探しをすることというのは、音楽評論家と言われる人たちによって担われていたという側面もあったのではないかと思う。一昨年中村とうようが自殺したとき*2、音楽評論家という種族が既に絶滅危惧種なのかも知れないことに気づくべきだったのだ*3中村とうよう或いは(その天敵である)渋谷陽一に匹敵するスターがその下の世代からは出てこない。若い世代で音楽について書いている人は少なくないにも拘わらず、その多くは音楽評論家ではなく音楽ライターという肩書きを名乗っているように思える。ライターと評論家の違い。このことと、(前半の)FM云々ということとの繋がりは私自身もよくわからないのだが。