安徽省(メモ)

李鴻章――東アジアの近代 (岩波新書)

李鴻章――東アジアの近代 (岩波新書)

岡本隆司李鴻章』から抜き書き。
李鴻章*1安徽省合肥県の磨店郷群冶村で生まれた(p.4)。


安徽省を地図で見てみると、その南部と北部にそれぞれ大きな川が貫いて流れている。南が長江、北が淮河であり、安徽省の地勢・風土は、各々の流域でひとまとまりをなす、いわば二元的なものと考えると、わかりやすい。
どちらかといえば、南部のほうが省の中心で、「安徽」という名称も、長江河畔にある省都の安慶と、さらに南にある徽州とを合わせたものである。山がちで耕地がさほど多くないのが特徴、そうした環境なればこそ、農業以外に生きる道を求める人が多く、たとえば長江流域にまたをかけて商業に従事する徽州商人を輩出した。だからこそこの地域は、生産力以上の影響力を中国全土に有していたのである。
北部は淮北、淮南、合わせて両淮などとも呼ばれる地域である。その重心があるのは淮南であって、平野の農地がひろがる。そのほぼ中央に位置するのが、合肥県である。合肥城は巣湖という湖の北にある都市で、廬州府が置かれた地域の中心をなす。一八八五年の統計によれば、一州四県で構成される廬州府の総人口は一四五万人あまりだが、そのうち合肥一県だけで、七一万人足らずとその半数近くを占めていた。(pp.3-4)
現在の安徽省省都は安慶ではなく合肥だが、それは1853年に太平天国軍によって安慶が陥落し、省都が廬州府に移って以来のことである(pp.34-35)。
See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20111118/1321630113