「機能性」と「自働性」(メモ)

意識としてのアジア (1985年)

意識としてのアジア (1985年)

松岡祥男「遠い迂回路―部落解放運動の一断面―」『意識としてのアジア』深夜叢書社、pp.153-160


少し引用。


わたしたちの現実は、言葉がまるで通じない、何を云っても無効で泥の徒労感しかもたらさないという不毛な局面が圧倒的だ。政治的虚妄や社会的迷蒙が不動のように場所を占め、人々を化かしている。そのくせ、言葉の指示機能は信じられたふりがされ、大手を振ってまかり通っているがほんとうはそうではない。言葉は他者に到達する以前にひきとられ歪曲されたり、到達した以後に曲解されたりする。その方が支配的なのだ。そういう言葉の流通性に対する不信にさいなまれるのが嫌なら、ひとつは新聞や週刊誌等にみられる機能性に同化することだ。言葉はまるごと社会通念の上にのり、それに加えて表記上の規範と制限と「校閲」という機構が介在することで、その表現と文体は無化される。これは指示機能だけは手中にあると盲信した記号の氾濫だ。もうひとつはいうまでもなく自己に向かって書くことである。他者にとっては意味不明な暗号であっても、それを書きなぐっている主体には内在的な意味をもっているというふうに。わたしたちはそこから一路、言語の自働性に就くしかない。吉本隆明が『言語にとって美とは何か』でいっているように、表現はそれじたいとして自己表出性と指示表出性をはらんでいるから。(pp.154-155)
この松岡祥男という人は1951年生まれで、高知市に住み、『同行者通信』という同人誌を発行していたようだ。所謂〈吉本隆明フォロワー〉で、この『意識としてのアジア』という本には吉本隆明本人*1が「松岡祥男について」というかなり長い跋文を寄せている(pp.245-261)。