コミュニケーションの失敗と「自己」の起源(メモ)

最新・マインドサイエンス―現代心理学の冒険

最新・マインドサイエンス―現代心理学の冒険

加藤義信「精神の発達(発達心理学)」(渡辺恒夫編『新訂版 最新・マインドサイエンス 現代心理学の冒険』八千代出版、1995、pp.80-117)


少しメモ。


シークランド(Siqueland, 1968)は、生後数日の乳児に、頭が一定の角度以上で回転したらゴムの乳首を口内に挿入してやるというオペラント条件づけの実験を行なったところ、1分間に生ずる頭の回転運動の頻度は明らかに高まったと報告している。この実験は、新生児でも自分の身体の運動とそれに随伴する事象との関係を発見する能力があることを示していて、興味深い。このような随伴性の発見能力は、外界に変化を生み出す源泉としての自分という主体感(sense of agency)の形成に大きく関係しており、やがて、生後2ヵ月以降になると、乳児は自らこのような随伴性を積極的に探索するようになっていくのである。
生後3ヵ月ごろ、乳児によく見られる反応として、顔の前に自分の掌をかざして動かしながらじっと見つめる反応(visual regards to hand)がある。この反応は乳児の内部における能動と受動の分化という観点から見て、非常に興味深い。ここでは眺め(視覚)の持続や変化を引き起こすために、自分の手の運動がコントロールされる。見ている自分(能動)と見られている身体(受動)の一部という関係が、乳児自らの力によって作られ、維持されている。能動の相としての主体感が自己内の受動を一方ではらみつつ、いままでとは違った形で経験されている。(pp.102-103)

母親は赤ちゃんが泣けば、ミルクを与えたり、おむつを替えたりするし、赤ちゃんが微笑めば、微笑み返す。ここでは、乳児が反応すれば、事象の変化となって乳児に返ってくるものがあるという点で、「もの」の世界と同じだが、しかし、運動的な反応以前の、泣くなどの情動の表出にも「ひと」は反応を仕返すし、微笑みのように、乳児が行なった反応と同質の反応を「ひと」は乳児に返していく(同型パターンの反応のやりとり)。「もの」と違って、「ひと」とは、乳児は同じ動作や情動を共有し、ともに響きあう関係を持つという点が重要である。
響きあう間柄は、単に「もの」の世界との関係の中で得られた随伴性の確認にもとづく主体感を与えてくれるだけでなく、自分の反応が受け止められる場があるという基本的な信頼を与えてもくれる。その意味で、乳児期初期に、特定の養育者(普通は母親)との間に濃密な関係が保証されることの重要性はいくら強調してもしすぎることはない。しかし、響きあいは他者との融合を前提に初めて成り立つのだから、響きあってばかりいたのでは、乳児の「自己」はいつまでたっても析出されてこない。響きあう関係から一歩抜け出すことが必要になる。
乳児と周囲の大人の基本的一体性を崩す契機は、乳児の行動や欲求が多面化する中で訪れる。ことばが芽生える以前の段階では、子どもの欲求は、子どもが示す反応に大人が意味を与えて解釈する中で初めて満たされる。しかし、子どもの欲求が多面的になればなるほど、反応からの一義的な解釈はますます難しくなり、おしめが濡れて不快で泣いているのに、いつまでもそれは放置されて、ミルクが与えられる、ということも起こる。また、月齢が進めば、欲求が正しく解釈されても、大人の側はしつけのためにその満足を引き延ばすことも行なうようになる(ミルクをできるだけ定時に飲む習慣をつけるために、泣いてもすぐには与えないなど)。こういった大人の側から持ちこまれるずれ=響きあわないリアクションは、「響きあわない」部分にあわせて自分の反応を変えたり、欲求の表現を変える活動へとつながり、やがては、いままでのように相手と直接「響きあう」のではない世界、相手に対峙して「つもり(意図)」を持つ世界が子どもに開けていく。(pp.103-105)
「もの」の世界と「ひと」の世界の区別に関しては、やまだようこ『ことばの前のことば』(新曜社、1987)が参照されている。
See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110514/1305332192