靴を凝視する人(メモ)

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秋菊小姐のご教示にて知る。
所謂「シューゲイザー」について。このサイトの作者は「シューゲイザー」の全盛期である1991〜1992年に渋谷HMV*1に勤めていたという*2。以前にも書いたかも知れないが、ちょうどその頃、俺は音楽を聴くという行為から殆ど撤退していた。
そういえば、コクトー・ツィンズの『スターズ・アンド・トップソイル』*3のライナー・ノーツで、佐藤一道氏がコクトー・ツィンズと「シューゲイザー」との関係について書いていた。曰く、


よくロックの歴史において提示される命題のひとつに「コクトー・ツィンズは果たしてシューゲイザーの元祖(ルーツ)か?」というものがある。答えはある意味では「イエス」、ある意味では「ノー」だ。

(前略)シューと彼ら[コクトー・ツィンズ]を大きく隔ているものとは何か? それはまさにバンドの看板ともいえる存在、エリザベス・フレイザーのヴォーカリゼーションに他ならない。そもそも「シューゲイザー」という呼称が「ライヴ中に足下を見る」という行為に対する揶揄が由来となっていることは、それだけこのジャンルがアティチュード面で語られることが多いことを意味する。もちろん、個々のバンドの個性を無視し、何故彼らが耳を聾するギターノイズをかき鳴らしていたのか、という意味への考察を避け、うわべの行動だけを見てあざけ笑っているだけに過ぎなかったのだけれど、その「うわべ」の違いこそがコクトーズを「シューゲイザー」そのものであると率直に言わせない空気の遠因となっていることは確かだ。


端的に言ってしまえば、それはエリザベスのヴォーカリストとしての特異性、存在感があまりにも強烈すぎたからである。多くのシュー・バンドが轟音の中に「声」を埋没させる音作りをする傾向があったのに対し、コクトーズはまずエリザベスの歌ありき、すなわち彼女のもつ唯一無比の「声」をいかに魅力的に響かせるか、という点に心血が注がれている。(中略)フレイザーの「歌」には明確な歌詞がないことは有名だが、聞き手の理解を半ば拒絶しているとも受け止められるその姿勢は、ある意味では非常にラディカルで過激なスタンスであるといえるだろう。シューゲイザーたちが声は小さいながらも「何か」を確かにつぶやいていたのに対し、「何か」を大きくはっきりと歌っているのだけれども、それがまるでこの世のものではないような言語(70年代にフランスのプログレ・バンド、マグマが独自の言語コバイヤ語を用いて歌っていたことを思い出させる)であったときの不条理さ、違和感のようなものが、サウンドそのものの非日常的逸脱性と相まって、コクトーズでしか体験できない強固な幻想空間を生みだしている。(後略)

スターズ・アンド・トップソイル~コクトー・ツインズ・コレクション 1982-1990~

スターズ・アンド・トップソイル~コクトー・ツインズ・コレクション 1982-1990~