哲学と文学(メモ)

JAMES RYERSON “The Philosophical Novel” http://www.nytimes.com/2011/01/23/books/review/Ryerson-t.html


哲学と文学との関係、或いは哲学の専門的トレーニングを受けたことがある作家の小説についてのエッセイ。「小説家は哲学的に書くことができるのか(Can a novelist write philosophically? )」
先ず哲学者であり小説家であったアイリス・マードック*1はこの問いに対して〈否〉と答えている。彼女によれば、哲学と文学は「正反対の営み(contrary pursuits)」である。「分析精神(analytical mind)」と「想像力」。それに対して、プリンストンで哲学の博士号を取得し、『心身問題(The Mind-Body Problem)』で小説家としてデビューしたRebecca Newberger Goldstein*2は、マードックの断言に甚く失望したという。彼女だけでなく、David Foster Wallace*3、William H. Gass*4、Clancy Martin*5といった哲学の専門的トレーニングを受けた作家たちは哲学と文学の関係と格闘し続けてきた。
プラトン以来の哲学と文学との両義的な関係の概観;


Philosophy has historically viewed literature with suspicion, or at least a vague unease. Plato was openly hostile to art, fearful of its ability to produce emotionally beguiling falsehoods that would disrupt the quest for what is real and true. Plato’s view was extreme (he proposed banning dramatists from his model state), but he wasn’t crazy to suggest that the two enterprises have incompatible agendas. Philosophy is written for the few; literature for the many. Philosophy is concerned with the general and abstract; literature with the specific and particular. Philosophy dispels illusions; literature creates them. Most philosophers are wary of the aesthetic urge in themselves. It says something about philosophy that two of its greatest practitioners, Aristotle and Kant, were pretty terrible writers.

Of course, such oppositions are never so simple. Plato, paradoxically, was himself a brilliant literary artist. Nietzsche, Schopenhauer and Kierkegaard were all writers of immense literary as well as philosophical power. Philosophers like Jean-Paul Sartre and George Santayana have written novels, while novelists like Thomas Mann and Robert Musil have created fiction dense with philosophical allusion. Some have even suggested, only half in jest, that of the brothers William and Henry James, the philosopher, William, was the more natural novelist, while the novelist, Henry, was the more natural philosopher. (Experts quibble: “If William is often said to be novelistic, that’s because he is widely — but wrongly — thought to write well,” the philosopher Jerry Fodor told me. “If Henry is said to be philosophical, that’s because he is widely — but wrongly — thought to write badly.”)

David Foster Wallaceは最優秀学士論文”Fate, Time, and Language: An Essay on Free Will”*6を書き、ハーヴァードの大学院に進んだが、彼によれば、小説は「哲学的営み=作品の情動的な雰囲気=気分を掴む仕方(a way to capture the emotional mood of a philosophical work)」を与えてくれるものである。或いは、”to figure out how to recreate a reader’s more subjective reactions to a philosophical text” 彼の認識では自作のThe Broom of the Systemではこれに失敗したが、その翌年に出たDavid Markson*7Wittgenstein’s Mistressは”the bleak, abstract, solitary feel of Wittgenstein’s early philosophy”を喚起することに成功しているという。
長年哲学教授をしていたWilliam H. Gassは、哲学の分析的厳密性に対する抵抗感・嫌悪感を告白している*8。とすると、彼にとっての文学は哲学からの逃避?
Rebecca Newberger Goldsteinの小説は、哲学者、物理学者、数学者の会話(ディスカッション)が多く含まれているという。彼女の見解は以下の通り。結局はDavid Foster Wallaceに近い?

(…) she says that part of her empathizes with Murdoch’s wish to keep the loose subjectivity of the novel at a safe remove from the philosopher’s search for hard truth. It’s a “huge source of inner conflict,” she told me. “I come from a hard-core analytic background: philosophy of science, mathematical logic. I believe in the ideal of objectivity.” But she has become convinced over the years of what you might call the psychology of philosophy: that how we tackle intellectual problems depends critically on who we are as individuals, and is as much a function of temperament as cognition. Embedding a philosophical debate in richly imagined human stories conveys a key aspect of intellectual life. You don’t just understand a conceptual problem, she says: “You feel the problem.”
最後に言及されるのはClancy MartinのHow to Sell。”a drug-, sex- and diamond-fueled story about a high-school dropout who works with his older brother in the jewelry business”であるこの小説は実は”disguised versions of Kant’s argument on the supposed right to lie in order to save a life, Aristotle’s typology of four kinds of liars, and Nietzsche’s theory of deception”が織り込まれているのだが、批評家は誰もそのことに気づいていないという――”Which raises an interesting, even philosophical question: Is it possible to write a philosophical novel without anyone knowing it?”
さて、哲学者ではない(哲学の専門的なトレーニングを受けたことはない)が哲学に造詣の深い文学者(小説家)は哲学と文学の関係をどう考えているのか。保坂和志『書きあぐねている人のための小説入門』から抜書きしておく;

哲学が小説を書くときのヒントになるかといったら、ヒントにはならない。まして小説の素材にはならない。さらに、小説を書くという限定した目的を取り払って、哲学の本を読めば人間として世界観が広がるかといったら、私はやっぱりそれも違うと思う。「発想が豊かになる」とか「斬新な視点が得られる」とかもどれも同じことで、そういう考え方は一様に、”生活の知恵”の域を出ていない。『今昔物語集』や「一休さん」のような子ども向けの話などに、難問を解くおばあさんやとてもトンチが利いた人が出てくるけれど、「世界観が広がる」「発想が豊かになる」「斬新な視点が得られる」という評価は、それと同じレベルに私には聞こえてしまう。(p.57)
「哲学とは思考を重ねていくものだけれど、最後に”答え”が書いてあって、そこに向かって思考していくわけではなくて、その思考のプロセス全体が答えになっているようなものなのだ」(p.59)――

まず世間一般に広くある哲学に対する誤解として、「”答え”を求めて論理的に追求していく学問」というイメージがあるらしい。しかし、哲学の本には”答え”が書いているわけではない。それを聞いただけでがっかりして哲学の本を読むのをやめようと思った人は、哲学の本を読むのに向かないだけでなく、小説を書くのにも向かない。なぜなら、小説という表現形式も哲学と同じように”答え”を書くためにあるのではなく、最初の一行から最後の一行までに至る全体として提示されるものだからだ。(p.58)

”答え”に似たもので、「我思うゆえに我あり」とか「神は死んだ」のような命題とか有名なフレーズとかがあって、ほとんどの哲学者はそれでみんなに記憶されているわけだけれど、こういう命題・フレーズも”答え”と同じだけ意味がない。
「我思うゆえに我あり」というときの「我」とは、どういうことなのか。勉強して、先生にほめられて、一流大学に入って、一流企業に就職して、世間的名誉と財産を築くことが人生であり、アフリカやアジアの飢餓にも近所の捨て猫にも何も関心を持たない人間の「我」と、マザー・テレサのように貧しい地域で飢餓や病気や貧困を救おうとした人間の「我」では全然違う。
ここで読者が、「そもそもマザー・テレサだったら『我思うゆえに我あり』 なんて言葉は拒絶しただろう。マザー・テレサだったら『キリストが永遠だから私もある』と言っただろう」――と考えたとしたら、デカルトのこの言葉は万能性を失うことになるわけだが、しかしデカルトニーチェやカントより前の哲学者なのだ。ということは、デカルトの「我」は前者の利己的な「我」に親近性があるのかもしれない……。
現代人が「我思うゆえに我あり」という言葉を聞くと、「この世界がこのように私の目に映るのは、私が生きているからだ。私が死んでしまったらこの世界が続くのか消えてなくなるのか、私には確かめようがない。それゆえ……」というようなことを考え始めることが多いのではないかと思うが、それはデカルトが考えたことと全然違っている(そんな身勝手な考えに思想的根拠を置こうとした哲学者なんて一人もいない)。
つまり、命題や有名なフレーズにも意味がなく、哲学は思考のプロセス全体があるだけなのだ。(pp.59-60)

哲学書が難しいと言われる根本の理由は、哲学が”私””人間””世界”を俯瞰することを拒否したところで思索しているからなのではないかと私は思う。
哲学者はそれらが俯瞰できない対象だからこそ思索する。それゆえ、思索に費やしたプロセス全体しか”答え”にならならい。一冊の本を読み終わった時点で、その展開をモデル化して図示することは不可能ではないかもしれないが、モデル化はすでに俯瞰なのだから、俯瞰できない対象を俯瞰せずに思索したプロセスの全体をわかるはずがない(ここは大事なので、もう一度読み返してください)。
(略)
外から見る・俯瞰する能力の自然な延長がモデル化であり、モデル化の能力がいくら高くてもそこに質的な差異は一切ない。人間が人間として心の底から知りたいと思うことは、すべて外から見ることができない、つまりその外に自分が立って論じることができない。それを知ることが哲学の出発点であり、これは小説もまた完全に同じなのだ。(pp.66-67)
書きあぐねている人のための小説入門 (中公文庫)

書きあぐねている人のための小説入門 (中公文庫)

哲学と文学といえば、やはりデリダを論破した(多分)唯一の日本人である中上健次に言及すべきか。中上は霜降りの松坂牛を食べなければ日本文化を理解することはできないと言い、デリダ仏蘭西にだってフォアグラがあるぞと反論すると、中上はあれは消化器官で〈排除の論理〉に基づいているから駄目! とデリダの反論を封じた。