零記号化現象

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(Via http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20101123/1290490719


「小沢信者」(の一部)が菅直人を韓国人呼ばわりしたという。「巷の声だが、カンはもとからの姓ではなく、半島のカンで、改姓したのだと」。漢和辞典を捲ればわかるように、菅という字の本来の読み方はカンではなくクワン。戦前の教育を受けた人から見れば、菅をカンと読んだ時点で、無教養な田吾作ということになるのだろう*1
思い出してみると、御大の小沢一郎が「朝鮮人」と呼ばれ*2、また菅直人の元秘書だとかいう人間が小泉純一郎の父親が「朝鮮人」だと触れ回っていた*3。というわけで、こいつらどっちもどっちだよねということはいえる。また、それに比べると、きくちゆみをCIAの手先呼ばわりしている副島隆彦はスケールが大きいぜと変なところで感心してしまったりする*4
しかし、こういうことで、呆れていたり・感心したりしていると、重要なところを見逃してしまう。別の「信者」仲間が開き直って、「私はそもそも、他人を「日本人じゃない」とか「xx人」だとか呼ぶことが差別とか、罵倒だとか考えておりません」と書いたようなのだが*5、これにはちょっとマジに答えたいと思う。先ず褒めてあげたいのだけれど、「他人を「日本人じゃない」とか「xx人」だとか呼ぶこと」それ自体が「差別」なのではない。その通り。問題はほかにあるのだ。前のパラグラフでも言及したように、「朝鮮人」或いは「韓国人」という言葉が零記号*6として、つまり何も意味しないが故に何でも意味する記号として流通していること、またネガティヴな意味の吹きだめとして使用されていることが「差別」といえるわけだ。零記号については、マルセル・モース『社会学と人類学』へのレヴィ=ストロースの序文を参照されたし。

社会学と人類学 (1)

社会学と人類学 (1)