森達也『東京番外地』

東京番外地 (新潮文庫)

東京番外地 (新潮文庫)

土曜日に森達也*1東京番外地』を読了する。


第一弾 要塞へと変貌する「終末の小部屋」――葛飾区小菅一丁目
第二弾 「眠らない街」は時代の波にたゆたう――新宿区歌舞伎町一丁目
第三弾 異国で繰り返される「静謐な祈り」――渋谷区大山町一番地
第四弾 「縁のない骸」が永劫の記憶を発する――台東区浅草二丁目
第五弾 彼らとを隔てる「存在しない一線」――世田谷区上北沢二丁目
第六弾 「微笑む家族」が暮らす一一五万m2の森――千代田区千代田一番地
第七弾 隣人の劣情をも断じる「大真面目な舞台」――千代田区霞が関一丁目
第八弾 「荒くれたち」は明日も路上でまどろむ――台東区清川二丁目
第九弾 「世界一の鉄塔」が威容の元に放つもの――港区芝公園四丁目
第十弾 十万人の呻きは「六十一年目」に何を伝えた――墨田区横網二丁目
第十一弾 桜花舞い「生けるもの」の宴は続く――台東区上野公園九番地
第十二弾 高層ビルに取り囲まれる「広大な市場」――港区港南二丁目
第十三弾 「異邦人たち」は集い関わり散ってゆく――港区港南五丁目
第十四弾 私たちは生きていく、「夥しい死」の先を――府中市多磨町四丁目
番外編 日常から遊離した「夢と理想の国」――千葉県浦安市舞浜一丁目


解説(重松清

これは所謂〈東京探検物〉というジャンルに属する本と一応は言えるのかも知れない。
目次を書き写しながら気づいたのだけれど、章ではなく「弾」という言葉が使われている。森氏が訪ねる場所は、第一弾では東京拘置所、第二弾では新宿歌舞伎町、第三弾では東京ジャーミー、第四弾では浅草寺境内にある「観音前交番」に開設されている「身元不明相談所」、第五弾では松沢病院、第六弾では皇居、第六弾では東京地方裁判所、第八弾では山谷、第九弾では東京タワー、第十弾では東京大空襲慰霊法要が開かれている両国の横網公園、第十一弾では上野動物園、第十二弾では東京都中央卸売市場食肉市場、所謂「芝浦と場」、第十三弾では東京入国管理局、第十四弾では多磨霊園である。また、文庫版で追加された「番外編」では東京ディズニーランド
東京番外地』の「番外地」とは何か。勿論かつての東映やくざ映画網走番外地』シリーズに由来する。曰く、

(前略)この連載タイトルにおける番外地は、もちろん刑務所の意味ではない。そんな具体性は不要だ。あえて定義を書けば、所番地という人為的な規定から解放されたエリアを意味し、周縁や境界を意味するマージナルな場所であり、治外法権や聖域を意味するアジールである。だから負の場所とは限らない。
条件としては、過剰であることか希薄であること。つまり平均値から逸脱していること。あるいは自由であること。ありは澱のように滞っていること。つまり、メガロポリス東京が経済や文化の発展や爛熟を象徴するのなら、そのエアポケットのような地域と施設ということになる。(第十三弾、pp.235-236)
また、第十四弾末尾の

書くかどうかは別にして、やっぱり僕は、真中より周縁に魅かれてしまう。多数派よりも少数派の中にいるほうが、何となく居心地いい。小さなもの、少ないもの、淡いもの、寄る辺のないもの、減りつつあるもの、脆いもの、弱いもの、切ないものを、大事にしたい。番外地を切り捨てたくない。もっといろんな声を聴きたい。もっといろんなものを見たい。だから旅はまだ続く。
(後略)(p.275)
からも著者の思いは伝わってくる。
面白かったかと聞かれれば面白かったと答える。また、この本の随所に、森氏の危機意識に満ちた秀逸なコメンタリーを聴くことができる。しかし、「所番地という人為的な規定から解放されたエリア」が迫ってくるかということに関しては、疑問符を呈しておくことにする。所謂〈東京探検物〉というジャンルの本は沢山ある。また、〈世界都市〉たる東京の名所或いはトレンディ・スポットに関する情報は、活字メディアにしても映像情報にしても或いはインターネット上の情報にしても、日本のみならず世界中に溢れている。この本は、そうした溢れかえる情報の中のちょっと変わり種のひとつなんだろうなという感じは正直言って拭えなかった。「解説」で重松清

だが、その目次だけを見ていると、既視感がないわけではない。異界めぐりは、硬軟取り混ぜて、都市ジャーナリズムの王道でもある。正直に打ち明けておくと、雑誌『波』での連載第一回が東京拘置所だと知ったときには、新連載に寄せる期待でずっと胸を高鳴らせていたぶん、ちょっとだけ拍子抜けしてしまった。拘置所は番外地としては定番、すっかり確立された番外地、「番外地という所番地」がすでに成り立っている場所ではないか。いくら森さんでも、そこをいまさら訪ねて、なにか新しいものを見つけられるのだろうか?(p.300)
と書いている。
ただ、重松は著者が「番外地」で「場違い」であることに、この本の魅力を見出している。曰く、

(前略)森さんは、おそらく手法としてではなく、無意識のうちに、サガとして、どこにいても場違いになってしまう。たとえ番外地に立っていても、足元がずれ、上体が揺らぎ、結局そこがまた一つの番外地になる。常に「番外地の中にたたずむ番外地」としてルポを書いているのだ。だからスリリングになる。森さんが番外地を批評のまなざしで見つめれば、逆に番外地のほうは森さんを場違いなよそ者として凝視し、睥睨する。まなざしがぶつかる。一方的に見るだけ、という身勝手な関係は結べないし、森さん自身もそれを望んでいない。ドキュメンタリーの作り手として、カメラのファインダーを覗きながら、その姿を別のカメラの前にさらすのと同じだ。(p.304)
たしかに、この本の中で、著者たちと取材対象者たち(そういっていいのか)とのやりとりはなめらかさを欠いている。また、著者にも安易ななめらかさ、わかってしまうことへの拒絶がある*2。また、「逆に番外地のほうは森さんを場違いなよそ者として凝視し、睥睨する」というのはあらゆるフィールドワークにおいて生起していることであり、馴染みのない場所でそこにいる人の視線を感じて自分がその場から浮いてしまっていると感じることというのは誰もが経験することだ。しかし、〈作品〉、つまりTV番組や新聞記事や研究論文になると、そうしたぎくしゃくとか自分がその場から浮いてしまっている感じというのは拭い去られ、あたかもスムーズな対話が進行しているかのような見せかけが提示される。或いは、レリヴァントで有用な情報として純化される。この本は、通常作品においては消されてしまうぎくしゃくをできるだけそのまま提示しようとする試みといえるのかもしれない。著者はジャーナリズムを批評して、

(前略)個々の記者やディレクターたちの不安や煩悶は、紙面やテレビニュースにはほとんど反映されない。なぜなら不安や煩悶などの曖昧な領域は、報道にはなかなかそぐわない。読者や視聴者が求めるのは、単純でわかりやすい結論なのだ。明快な述語を使わないと、視聴率や部数はあっというまに激減する。この傾向も、オウム以降とても強くなった。(p.130)
と述べている。『東京番外地』というタイトルに幻惑されてはいけないのであって、ここで重要なのは「番外地」つまり観光ガイドに載っていないようなマイナー・スポットではなく、あくまでも〈取材〉ということなのだろう。この本の主題が「番外地」という場所であるよりも、寧ろ「場違い」になることも含めた〈取材〉という所作なのだということに関して、思いつくことがある。この本で強い印象を与えられるのは、著者と行動を共にする土屋眞哉という新潮社の編集者である。著者は、編集者にお膳立てをさせるという〈作家先生の取材〉という大時代的なものを、おそらくは意図的に擬いているのだ。
〈東京探検物〉というジャンルは多分明治の松原岩五郎『最暗黒の東京』を端緒とするといえるだろう。或いは永井荷風の「日和下駄」とか。ここでは戦後のものとして、取り敢えず(昭和30年代の)開高健『ずばり東京』、1980年代の如月小春『都市の遊び方』、粉川哲夫『国際化のゆらぎのなかで』、『都市の使い方』*3、それから濠太剌利人Peter CareyのWrong about Japan*4を取り敢えずマークしておく。 
最暗黒の東京 (岩波文庫)

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荷風随筆集 上 日和下駄 他十六篇 (岩波文庫 緑 41-7)

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ずばり東京 (文春文庫 (127‐6))

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都市の遊び方 (新潮文庫)

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国際化のゆらぎのなかで

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都市の使い方

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Wrong About Japan

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日曜日に、伊藤たかみ『ロスト・ストーリー』*5を読了。また、石計生『閲読魅影 尋找後本雅明精神』*6を読了。

ロスト・ストーリー (河出文庫)

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