池上俊一「歴史における「精髄」と「愛」」『UP』443、pp.42-47
仏蘭西の歴史家ジュール・ミシュレにおける「精髄(genie)」と「愛」の概念について。
genie――「精髄」のほかに、「特性」、「真価」。また、「精」、「霊」、「守護神」(神話学用語)。また、「天才」、(個人の)「天分」、「天性」、「才能」(p.42)。「「精髄」とは、フランスのような国全体にも、その各地域にも、また個人にも宿り、それぞれの賦活力となって、まさに「歴史」をしかるべき方向に動かしていく霊妙なる力、歴史的知性を備えた地霊のようなもの」(p.46)。
「精髄」と国民=国家(nation)との関係;
漢語及び日本語の〈国粋〉との関係は?
(前略)ミシュレにとっては、フランスにはフランス固有の「精髄」があることが何よりも大切なのである。彼は、国民(国家)nationの本質を、多様性と統一性の双方で定義しようとした。彼によると、フランスの起源は、民族的にして地理的な多様な要素の混淆にあるのであり、そのため近代フランスも、なおその諸地方を尊重しつつ統合されているのである。他のヨーロッパ諸国ではこんな芸当は不可能で、諸要素は並置こそすれ、融合することはなかった。多様性はドイツやイングランドを弱体化させたのに、フランスを強化したのはなぜか、という問いに、ミシュレはつぎのように答える。すなわち、フランスの「国民的精髄」genie nationalは、攻撃的な力ではない、つまり諸々の人種や地域を強要して自己に統合させるのではなくて、それは魅力的な力なのであり、その力に誘引されて、諸地域や諸人種が引き寄せられていくのだ。それは、とりわけ辺境の役割でもある――
「しかしながら、フランスがそのすべての国境上に、国民的精髄に、外国の精髄のなにがしかを混淆させる地方を有していることは、フランスの偉大さのひとつである。フランスは、ドイツに対しては、ドイツ語圏フランスを対置させ、スペインにはスペイン語圏フランス、イタリアにはイタリア語圏フランスを対置させた。」(「タブロー・ド・ラ・フランス」)。ポール・ヴィアネラの言葉を借りれば、この多様性は、フランスの「借り物の精髄」genie d’empruntsへの類い希な適性を示している。
ミシュレによって、フランスはたびたび「有機体」に喩えられる。フランスの諸器官はたがいに連帯し、いたるところ生命力に満ちている。他のヨーロッパ諸国においては、何人もの並立する君主、特有言語、人種に分裂しているのに、フランスのみが唯一の「人格」を備え、それは「民衆」により代表される。そしてその人格を、フランスは戦争で負かした国へと伝えていく。有機体であり人格であるフランスは、普遍的な愛の集団的表現ともなっている。(pp.44-45)
また、
「民衆」的なものと「知識人」的なものを対置し、前者に優位性を与えるというのは、ポピュリズム一般*1の想像力に共通するのでは? 或いは〈民衆崇拝〉の基盤。また、民俗学が存立する前提ということで、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090218/1234940110にリンク。
ところで、個人のgenie(天才、天分、天性)についてもミシュレは語っているが、それは、現在われわれが使う意味の、凡人から隔絶した知能、理想の天分を有する人ということではない。凡人からかけ離れた人であるどころか、それはむしろ民衆と女性の感受性を、教養ある知性の自由と結びつけた者なのであり、創造性を道徳的センスと調和させることのできる者である。ミシュレは、下層の者の心にはこの上ない価値がある、と考えた。というのは、民衆を支配する直観的思考は、ただちに行動に接していて、反省、熟慮、討論の諸ステージをへる知識人のやり方では到達しない地点へと、連れていってくれるのだから。天才とは、単純な人間、子供、民衆の代表者なのであり、民衆の統合的直観は、美的な全体性を倫理的主張へと同化させる。天才は、この民衆の統合的直観をもっている。(pp.45-46)
ミシュレは『魔女』しか読んでいないのであった。
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