『赤い教室』など

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090616/1245178653で、曽根中生監督の『天使のはらわた 赤い教室』(原作は石井隆)に言及しようと思ったのだが。この映画ではレイプが物語が展開する梃子として機能している。教員免許を取るための教育実習に行った女子学生(水原ゆう紀)が男子高校生どもにレイプされてしまうが、その場面は何者かによって8ミリ・フィルムに撮られていて、ブルー・フィルムとして流通してしまい、そのため、彼女は就職もできず、裏の世界へと堕ちてゆく。全体として、神聖冒瀆による聖性の顕現という図式に収まってしまうようにも思える。しかし、他方で、彼女のレイプ・シーンを視て一目惚れしてしまった、エロ本編集者(蟹江敬三)の物語を勘案すると、その図式を微妙にはみ出してしまっているようにも思える。彼は郊外の団地に妻子がいる表世界の住人である。最後にようやく水原ゆう紀を探し出した蟹江敬三に対して、彼女は彼も自分と一緒に裏の世界へ堕ちるよう要求する。

天使のはらわた 赤い教室 [DVD]

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クリント・イーストウッドの『ミスティック・リヴァー』*1ではその物語の起源にペドフィリアによるレイプが置かれている。勿論、子役の人権を配慮して、直接その場面が画面に登場することはないが。ここで不図思ったのは、起源としての暴力が事件を引き起こし、物語を回転させるという設定、換言すれば、レイプのトラウマから登場人物が様々な苦難を味わうという設定が、実はレイピストの欲望、意図に沿ったものでありうるということ。暴力の悪、その悲惨さを強調することがその暴力を(テロスにおいて)肯定してしまうことになってしまうかもしれないというパラドクス。たしか、松浦理英子が1980年代にそういうことを提起して、論争になったということがあったと思う。
ミスティック・リバー [DVD]

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〈政治〉の隠喩としてのセックスということでは007*2を参照すべきであろう。勿論表現が洗練されているので、ジェイムズ・ボンドはレイプなんかしない。しかし、かつてはボンドと寝た(敵方の)女性はボンド(大英帝国)に服従するという鉄則があった。つまり、ボンドにとって、セックスはMI6工作員としての職務の一環なのである。しかし、上司Mがジュディ・リンチに替わったポスト冷戦の1990年代以降の007では微妙に違っている。ボンドにやられた女性はボンドに服従するという原則を破ったのは、『ワールド・イズ・ノット・イナフ』のソフィー・マルソーであろう。
007/ワールド・イズ・ノット・イナフ〈特別編〉 [DVD]

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