スピヴァク騒動から

事情もわからないので、先ず参照した情報の羅列をする;


「「BOOKS Mangroove」店長」さんによる
http://blog.mangroove.shop-pro.jp/?eid=267525
http://blog.mangroove.shop-pro.jp/?eid=270572


打越正行氏*1による
http://blog.goo.ne.jp/usrc2/e/2902051050c7b066928aac741a293d96
http://blog.goo.ne.jp/usrc2/e/801d050aa2e031728f6a44c4ba929fdf
http://blog.goo.ne.jp/usrc2/e/f76d7a82f0632dc9412f58ae914e8ff0
http://blog.goo.ne.jp/usrc2/e/2c569170cba404c7d8cd6ad09669d5d6
http://blog.goo.ne.jp/usrc2/e/9fe6acecc256831000a130ae99b2da1b
http://blog.goo.ne.jp/usrc2/e/9b1f64a70c4500903240e808e344a2aa
http://blog.goo.ne.jp/usrc2/e/47f47151ab36d7808291ea672431bd21
http://blog.goo.ne.jp/usrc2/e/aa7a21a87b7c15bc0c8445a76832401a
http://blog.goo.ne.jp/usrc2/e/864d262401248e5080a81df8fbe658e3
http://blog.goo.ne.jp/usrc2/e/d89e37245eb8e5f05c31b3314ccc4c4c
http://blog.goo.ne.jp/usrc2/e/7326be238f625f65b6ea1b21955c68e3
http://blog.goo.ne.jp/usrc2/e/b47ea40d0b0dd1d56311a7c5a2beb1c5
http://blog.goo.ne.jp/usrc2/e/92d4fbae5353f7b2826c0a72f640d92f
http://blog.goo.ne.jp/usrc2/e/12bc3137e8343d3c123160b19cad20c1
http://blog.goo.ne.jp/usrc2/e/f94b5a35fe08a2942a7ed88d4bacaf06
http://blog.goo.ne.jp/usrc2/e/486f1a917e18700bc2d312a969b7922e


小田亮氏による
http://d.hatena.ne.jp/oda-makoto/20070803#1186152196
http://d.hatena.ne.jp/oda-makoto/20070806#1186430731


pilateさんによる
http://d.hatena.ne.jp/pilate/20070808


この中で先ず、pilateさんの


サバルタンという用語に批評的価値があるとするなら、定義を御旗にサバルタン/非サバルタンを分類するために使うのではなく、サバルタンという見えない層を生む知の権力、あるいは代表=表象の権力について深く考えるために使うべきではないか。そうした問題意識があるなら、誰がサバルタンか否かを定義するといった(文化)リテラシーに秀でた特権的なエリート特有の発言はまずありえない。
http://d.hatena.ne.jp/pilate/20070808
という言葉を引用しておく。また、小田亮氏の「ポストコロニアル研究や人類学の陥りやすい落とし穴」、「すなわち、研究者がアカデミックな空間で「サバルタン」という「発話のポジション」を憧憬しつつ(実際の「サバルタン」にはスピヴァクが指摘しているように「発話」の機会そのものが奪われているにもかかわらず、です)、あたかも自分が「サバルタン」に同一化しているかのように発言しながら、その一方で、誰が「サバルタン」なのかという認定をするのは自分たちだという権威を保持していくという態度」という指摘*2。また、「「サバルタンであること」とは、そのような一貫した普遍的・超越的な「正しさ」を取れず、そのような「正しさ」に抑圧されていることを指すのであり、「サバルタンに学ぶこと」とは、そのような一貫した「正しさ」の抑圧性を知ることなのでしょう」*3ということも。
唐突かも知れないが、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070808/1186543467もマークしておく。