山崎正和、そしてファッション(メモ)

承前*1

山崎正和氏の思想について興味深い記述を見つけたので、メモしておく;


真正の保守主義というのは西欧の近代主義と普遍思想を一義に前提する。山崎氏は西欧文明と近代社会を前提したうえにて、日本の社会的/文化的土壌を西欧の位相――ことに英米の位相から相対的かつ観照的に照射して示してきた。福田恒存高坂正尭山崎正和、ひいては塩野七生といったラインを、某や某のごとき鎖国的保守、言い換えるなら原理主義的保守と一緒くたにされてはたまったものではない。


たとえば、山崎正和丸谷才一の一連の対談は名高いが、それ1冊でも目を通せばわかることじゃないか。丸谷才一の位置付けとか、非常に困難なわけです。まして岡野弘彦などは。文化的には歴たる意思的反動であるけれども、それが政治的な行動や言説へと移行することはなく、むしろ彼らはその種の政治主義的かつ行動主義的な動向と趨勢に対して常に棹差し批判的であり掣肘的である。


而して、こうしたスタンスは、たとえば西部邁江藤淳らのそれとも相違する。あるいは丸谷氏が敬した吉田健一について鑑みるなら、了解し得ることとは思う。更に言えば、山崎氏が評論家であって、丸谷氏が作家であることの相違とその所以。


あえて端的に言うなら、彼らは英米的な文明論と文化論の人であり、文明論とは常に比較相対を前提して展開される。英米的な近代と普遍を大前提とする彼らはまったくロマン主義的な資質と志向なく、道学者をことに嫌う。道学者気取りの鎖国的/原理主義的保守は彼らの唾棄するところである。


彼らの問い続けた主題とは、日本という「悪い場所」における近代と前近代の、ひいては西欧と非西欧の、普遍と個別の、分岐と境界をめぐる諸相であった。そして。時に左翼知識人以上にリテラルに西欧主義的(=英米志向)であった山崎正和は社会評論家として文明の普遍性を論じ、西欧的な視座からメタフォリカルに「悪い場所」たる日本の固有性を凝視して観照した丸谷才一は作家として文化の個別性について論じ時に反動的に振舞った。


而して、山崎氏はそのあまりにリテラルな西欧主義を、丸谷氏はそのあまりにメタフォリカルな文化至上主義を批判されるに至って長いこともまた、周知の事実である。彼らの達した場所とは、文化的保守主義のコインの表裏であった。
http://d.hatena.ne.jp/sk-44/20070429/1177807890

ここで言及されている塩野七生については、よく知らないというか、エンガチョとして近づくことを避けてきたので、飛ばす。また、高坂正尭についても、京都学派の哲学者である高坂正顕の息子で、熱烈なタイガース・ファンだったということくらいしか知らない。山崎氏の思考の根本は現象学だと思っている。しかし、現象学という思考のスタイル自体、独逸観念論などよりも英国経験論に親近性を持っているということは事実だ。また、一般論として、良質な保守主義者が英国経験論を踏まえているということはいえるだろう。良質な左翼が米国プラグマティズムを踏まえている場合が多いように。丸谷才一先生については、ことはさらに複雑なのだろうと思う。例えば『笹まくら』や『たった一人の反乱』を読めばわかるように、そこには〈共同体〉的なものへの徹底的な距離感覚と〈伝統〉への内属ということへの肯定的な感覚が共存している。多分、T.S. エリオット辺りを補助線として使えば、更なる理解が可能なのかも知れないが、今その余裕はない。
笹まくら (新潮文庫)

笹まくら (新潮文庫)

たった一人の反乱 (講談社文芸文庫)

たった一人の反乱 (講談社文芸文庫)

文芸批評論 (岩波文庫)

文芸批評論 (岩波文庫)

話は全く変わるが、「ファッション」についてのネタだが、http://d.hatena.ne.jp/tomo-moon/20070506/1178450075をマークしておく。
「男は異性のためにのみファッションに気を遣わされているんですよ」という誰かの発言に対して、曰く、


ということはない。違うよ。全然違うよ。誰も「強制」なんかされてない。異性の前で、社会の中で、おかしく思われないために「自分でやっていること」に過ぎない。

もし男性が「気を遣わされている」状況があるとするなら、男性に対して「おしゃれであること」への要求がとても高い女性にアピールしようとするときか。しかし、そんな女性にアピールしようとしている時点でそれはやっぱり「自分で選んでやっていること」になる。

そもそも男性にも女性にも、異性に対して「あなたの服が素敵だったから好きになりました」って人はなかなかいないでしょう。


「その上を行くファッション」になると、男女共々どんどん「自己満足の領域」に突入していく。

逆に「あまりに先鋭すぎるファッション」は、ときに「恋愛の妨げ」(=異性受けはしない)にすらなる。例えば女性の場合、とてもわかりやすい語として「かまやつ女」ってのがあったでしょ。嫌いな言葉だけどね。「かまやつ女」は一般男性には受けない。ただ、ファッションに費やすコストでいえば「かまやつ女」のほうが「めちゃ☆モテOL」(笑)よりも多いこともしばしばある事実。パッと見、華やかさからはかけ離れていても信じられないほど値段の張る服ってあるからね。その逆も然り。


そして、ロクに食事も摂らず収入のほとんどをハイブランドの服に注ぎ込んでいるような超おしゃれさんは女性だけでなく男性にもたくさんいるように見える。中には彼女がいる場合にかかるデート代なんかも注ぎ込んで、「自分の好きなファッションができなくなるなら彼女なんてイラネ」って人も。それは既に「異性のため」などではなく、ほかでもない「自分自身のため」だよね。皆が皆、自分や好きな異性が美容師でも服飾専門学校生でもアパレル関係者でもないのだから。

これについては、かつて

英語のfashionには「流行」という意味は勿論あるが、「様式」とか「流儀」といった意味の方がより語源に近い古来の意味であるといえる。また、動詞としては常に後者に関係する「形づくる」という意味で使われる。(略)「おしゃれ」というのは他者に向けた自己の様式化と言えなくもない。そのような意味では、「おしゃれ」というかfashionそれ自体は「不易」であるとはいえる。「流行」に乗ろうが、それに逆らおうが、それを無視しようが、はたまた「流行」の存在を知らずにいても、他者に向けて自分をある様式を持った者として呈示することは、fashionなのであり、それは私が他者と関わっているという意味で社会的存在である以上、何時でも何処でも行われてきた(いる)といえよう。
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060312/1142190612
と書いたことを思い出した。