「外国文学教育」その他

http://d.hatena.ne.jp/sean97/20070213


最近、うちの大学でも、「課題探求型」といわれる、学生が自由にテーマを選んで卒論を書く、みたいなのにシフトしつつあります。

僕のいる学科では、まだ「日本史」「西洋史」「ドイツ文学」「フランス文学」みたいな枠で学生を抱え込んでおりますが、それが崩壊するのも時間の問題でしょう。


こういう情勢下、一番(かな?)分が悪いのは、外国文学系です。なにせ、ここには「外国語」という壁がある。

僕の頃は、外国語をマスターした上で、アホほど時間をかけながら、原文で作品を読み、卒論を書く、という作業が当たり前でした。

ところが今、とくにいわゆる「一流大学」でないとこでは、そう悠長なことはしてられません。まあ基本的には、ほとんど翻訳で、となる。


しかしそうなると、こちらも外国文学のゼミでは一般的であろう「原書講読」の意味が薄らいでくる。どうせ翻訳でやるんだから、外国語やってもあんま意味ない、というわけで。

そういえば、私はフォーマルな「外国文学教育」というのを受けたことがないのだった。ところで、勿体ない気もする。大学で「外国文学」を専攻したということは、世間では「文学」はともかくとして、その「外国語」ができるということが一応ウリになると思われるからだ*1。さらに「外国文学」専攻で重要なのは小説を読むということだ。社会学、経済学或いは哲学専攻でも外国語の文献を読む。しかし、そこで慣れ親しむのは、(例えば仏蘭西語だったら)仏蘭西語一般ではなくて学術論文の仏蘭西語でしかない。小説を精読することで培われた語学力というのはとにかく凄いものでありうると考えている。それは小説というメディアそれ自体の性質による。小説には当該の言語(langue)に属するありとあらゆる言葉が集まっていると思われる。単純な話、小説の多くは地の文と会話から成り立っているので、小説を読めば、書き言葉も話し言葉も知ることができる。さらには、上流階級の言葉と下層階級の言葉、都会人の言葉と田舎者の言葉、男言葉に女言葉、老人の言葉にガキの言葉、政治の言葉に経済の言葉、さらにはセックスの時の喘ぎ声等々。「文学教育」としては邪道なのかも知れないけれど、語学教育の一環としての小説の精読というのはかなり有効なのではないかと思うのだけど、どうなのだろうか。
また、

で、そのうち、学生に好きなテーマで好きなように発表させる、のがゼミということになる。


しかしそうなると、今度は教員の専門などというのもほとんど無意味になります。たとえば、(これはこの前の会議で例に挙がっていたものですが)「ウェディング・ケーキの研究」をやりたい、という学生がいたとして、今の時点で僕んとこにそういう学生が来たら、「いや、僕は専門外だから」とお断りします。しかしそういう卒論をアリにする、となると、基本的には「専門外だから断る」ということはできなくなります。「ウェディングケーキの専門家」なんて(少なくともうちには)いないんだから。なので学生は、教員の専門ではなく、人柄とか、全員に優をくれるとか、そういう基準で選びやすくなる。


(略)


これからの大学教員に必要なのは、専門知識よりも何よりも、「学生をおだてて、褒めて、やる気を引き出す技術」なのかも、しれません。

というよりも、広く浅く知っているというか、自分は知らないけれど知っている人を知っているというか、生き字引ならぬ生きGoogleみたいなことが重要になるんでしょうか。
それで、唐突だけれど、村山敏勝さんのことを思い出していた。

# Keiko 『先生、「結婚式のスピーチよめ!」とか「学生時代より上がった女っぷり(?)をほめろ!」とか責めてごめんね。でも相変わらずのうちらでおもしろかったでしょ? 授業をさぼって(もちろん先生のじゃないですよ)先生の部屋に忍び込んで本読んだりしてたこと思い出したよ。(お留守のときも何度か・・・)古今東西の奇天烈な本が並んでているだけでわくわくした。先生も論文やら何やらで忙しかっただろうに、そんな私に付き合ってくれてありがとう。色んなこと話したけど、勉強のはなしよりも 東京ドイツ村の無駄すぎる広大な敷地について熱く論議したこととか だめな男ばっかにひかれるシゲタみたいなW子をふたりで口撃したこととか そんなことばっかが思いだされる(笑 おもしろい本や映画に出会うと次先生に会って話すのがすごく楽しみだった。けちょんけちょんに返されてもね。これからもそれは変わらないと思うよ。
また一緒にお酒が飲みたい。』
http://d.hatena.ne.jp/toshim/20061005#c1160495520
死後にこういう言葉を贈られるということは屹度〈いい先生〉だったのだろうと思う。

*1:それ以外にウリはあるのか。