「主権」なんて

http://tu-ta.at.webry.info/200610/article_12.html経由で、「食料[食糧]主権(food sovereignty)」という言葉を知る。詳しくは、


 大野和興「レジュメ「食料主権と自由貿易」」http://rural-journal.at.webry.info/200610/article_3.html


を参照されたい。その主旨に反対するものではない。しかし、問題なのは「主権(sovereignty)」という言葉。ただの〈権利〉でいいじゃないか。左翼の人なら、例えば〈安全保障〉という言葉のいかがわしさに敏感な筈である。それと比べると、「主権(sovereignty)」という言葉のいかがわしさに敏感な人は少ないような気がする。極言すれば、「主権(sovereignty)」という言葉或いは概念に対するスタンスは、左翼にとっては、政治的にも哲学的にも(例えば天皇制を肯定するか否定するかとかよりも)重要な試金石なのではないかとも思う。
以下、ちょっとハンナおばさんの言葉をメモする。但し、この件に関しては、以前「コンティンジェシーと暴力」という論文で言及したこともあり、引用文の置かれた文脈など*1はそちらを参照していただきたい。
「自由とは何か」(in 『過去と未来の間』)より;

過去と未来の間――政治思想への8試論

過去と未来の間――政治思想への8試論


政治的に見れば、こうした自由と主権の同一視は、自由と自由意志との哲学的な同一視のおそらく最も有害で危険な帰結である。というのも、こうした同一視は、いかなる人びともけっして主権的ではありえないという認識に基づいて人間的自由の否定にいたるか、さもなければ、一人の人間、一集団、一政治体の自由は、他のすべての人びとの自由、すなわち他のすべての人びとの主権を犠牲にすることによってのみ購われうるという見方に傾くかの、いずれだからである。旧来の哲学の概念の枠組みでは、自由でありながら主権的ではないこと、いいかえれば、主権性を欠きながらなおも人びとが自由でありうるなどおよそ理解を絶することである。実際、人間が主権的ではないという事実を理由に自由を否定するのが非現実的であるのと同様、主権的でありさえすれば、人は――一個人としてもしくは一集団として――自由でありうると信じるのも危険である。政治体がもつ主権という周知の事柄はこれまでつねに幻想でしかなかった。そればかりか、そのような幻想は、暴力という道具、すなわち本質的に非政治的な手段によってのみ維持されうるものにすぎない。人間の条件は、一人ではなく複数の人間が地上に生きているという事実によって規定されており、この条件のもとでは、自由と主権はまったく異質であり、同時に存在することさえできない。人びとが、個人としてであれ組織された集団としてであれ、主権的であろうとするならば、かれらは、自我が自ら自身に強いる個人的な意志か組織された集団の「一般意志」か、いずれにしても意志の抑圧に屈服せざるをえない。人びとが自由であろうとするなら、まさにこの主権こそが放棄されねばならないのである(pp.222-223)。

*1:例えば、最初の「こうした」が指示する事柄とか。