St. Francis Xavier in China

『朝日』の記事;


(世界発2006)方済各・沙勿略、中国で見直し フランシスコ・ザビエル生誕500年

2006年08月04日



  日本にキリスト教を伝えた宣教師フランシスコ・ザビエルの足跡が、中国で見直されている。ザビエルは中国本土での布教をめざしながら、上陸を果たせないまま、マカオ西方の上川島で亡くなった。生誕500年の今年、国際シンポジウムが開かれ、中国の学界は「中国への布教の基礎を築いた」と再評価。中国当局カトリック総本山バチカンの対立関係にも改善に向けた変化の兆しが見える。(上川島〈中国広東省〉=鈴木暁彦)


 ●中国本土目前で死去、学界「布教の礎」

 生誕500年記念国際シンポはマカオ理工学院などの主催で5月にマカオで開かれ、米国や中国の研究者らが出席した。

 北京から来た中国社会科学院世界宗教研究所の卓新平所長は「ザビエルは近代アジアにカトリックを伝えた第一人者で、上川島上陸は中国近代カトリック史の画期となった」と評価。浙江大宗教文化研究所の戚印平教授は「その勇敢な試みはイエズス会の中国進出の原動力になった。5年前にザビエルの論文を書いた時はほとんど反響がなかったが、最近は注目度が高くなった」と話した。

 カトリック研究に対する中国当局の態度については「支持しているとまではいえないが、幅広く認めるようになった」と戚教授。中国とバチカンの関係修復の動きが背景にあると見られ、「中国でのカトリック研究は数年前から熱を帯び、ザビエル研究もここ2年で拡大し、内容も深まっている」と曁南大(広州)の湯開建教授は指摘した。

 「マカオは中国が近代の西洋文化を採り入れた最も古い窓口。カトリックの拠点だ。シンポの開催地にふさわしい」と卓所長。マカオの聖ヨセフ修道院にはザビエルの腕の骨が安置されている。

 シンポ参加者はマカオの西100キロの南シナ海に浮かぶ上川島にあるザビエルの墓園を訪れた。墓園はザビエルの遺体が一時埋葬された島北部の象鼻山に1639年、マカオの教会が資金を集めて建設し、その後、修復が繰り返されてきた。米カリフォルニア大ロサンゼルス校の湯維強・助教授(比較政治)は「命懸けだった旅を思い、ジーンと来た」と話した。

 復活祭の4月16日には敬虔(けいけん)なカトリック教徒として知られる香港の曽蔭権(ツォンインチュワン)行政長官も墓園を訪れた。中国本土でもこのニュースが報じられ、にわかにザビエルに対する注目度が上がった。


 ●バチカンとの「修復」背景に

 ザビエルは1551年11月、日本を離れてインドのゴアに戻り、翌年4月、中国本土をめざしてゴアを出発し、8月末か9月に上川島に着いた。

 上川島にはポルトガル商船が寄港、広州から来た中国商人と「密貿易」をしていたといわれる。当時、大陸沿岸を倭寇(わこう)と呼ばれた海賊が荒らしていたため、明朝は鎖国令を出し、「勘合符」という証書がなければ外国人は上陸できなかった。

 ザビエルは中国商人に同行して上陸しようと船を待つうち病に倒れ、52年12月3日死去した。

 ポルトガルはザビエルが死去した後の57年、マカオに永久居留権を獲得した。教会が立ち並び、キリスト教が弾圧された日本からも信者がマカオに逃れた。

 ザビエルが中国をめざした理由としては「日本で中国文化の影響の大きさを知り、布教成功のためにはまず中国での布教が必要だと考えた」(卓所長、湯開建教授)という説が広く伝えられる。

 もちろん、ザビエルは日本に来る前にポルトガル商人から中国に関する情報を得ていた。戚教授は「当初から、中国入りするための手段を探ろうと、日本で思案を巡らせていたのではないか」との異説を展開する。「当時の室町幕府から勘合符を得られれば安全に中国入りできると考えた」という推論だ。様々な説が中国研究者の興味をそそり、再評価を促している面があるようだ。

 背景には、中国とバチカンの緊張緩和を探る動きもある。3月、バチカンのジョバンニ・ラヨロ外務局長は「(国交樹立の)機は熟している」と発言。中国の葉小文・国家宗教事務局長も4月、「台湾と断交し、内政不干渉を約束すればすぐにも可能」と答えている。


フランシスコ・ザビエル〉 カトリック教会の聖人で、中国語表記は方済各・沙勿略。1506年4月7日、スペイン北部ナバラ王国ザビエル城に生まれた。パリでイエズス会創設に参加し、インド布教に派遣された。セイロン(スリランカ)、マラッカ(マレーシア)、マルク諸島(インドネシア)などで活動。49年8月、鹿児島に渡来し、2年後の11月、豊後(大分県)から日本を離れた。


◆キーワード

 〈中国とバチカン〉 バチカンは1942年、当時の中華民国と国交を結んだが、49年に成立した中華人民共和国は51年、バチカン公使を追放。バチカンは台湾と外交関係を維持している。中国は、バチカンの影響を受けない中国天主教愛国会を設立し、司教を独自に任命するなど、敵対的な関係が続いてきた。98年、台湾の中国司教団が「台湾地区司教団」に改称し、関係改善の地ならしが始まった。

(06年7月15日付朝刊)
http://www.asahi.com/edu/nie/kiji/kiji/TKY200608040141.html

今年の1月には生誕500周年を記念して、”XAVIER 2006 Expedition China-Japan”*1というのが行われたらしい。ザビエルについては、http://www.artsales.com/ARTistory/Xavier/Xavier_1.htmlも参照のこと。
ところで、徐光啓によって上海にカトリックが伝えられたのは、1608年1月、明万暦36年12月のことである*2

*1:http://www.atlantik2001.com/china_japon_bitacora.html この頁の後半部は西班牙語なので、意味が取れず。

*2:張化『上海宗教通覧』上海古籍出版社、p.363.