「逆説の核心」(メモ)

世紀末を越える思想

世紀末を越える思想

ジャン=マリ・ドムナク『世紀末を越える思想』(桑田禮彰訳、新評論1984*1
マルクス主義のもろもろの化身」という章からメモ;


現代マルクス主義の逆説の核心は、自然と文化を、また必然性と自由を調停することによって、現実の歴史を合理化しようというこの巨大な試みが、まったく非合理的な歴史を発生させ、『収容所群島』や、カンボジアの大虐殺という異常なまでの不合理にたどりついてしまったという点にある。ソ連は、直接間接、アフガニスタンカンボジアに介入し、それらの国の政治体制を攻撃している、それは、そうした政治体制が、共産主義の論理を、錯乱状態に陥れたからである。これでは、われわれは、共産主義の残虐さのうちの程度の激しいものと、それほどでもないもののあいだでしか、もはや選択しえないようにも思えてしまう。そんなことはマルクス主義とは関係ない、と反論する者もいよう。しかし、そうした反論は間違いだ。もちろんマルクス主義と関係がある。しかも、そのマルクス主義は、現実の中に肉化した観念だけを価値ありと認める点で、異論の余地なくマルクス自身に最も忠実なマルクス主義なのである。ブレジネフやジョルジュ・マルシェ*2が、美しい魂の社会主義に対抗して、「現実化された社会主義」を主張するかぎり、彼らは正しい。
この逆説は、現実が一世紀前からたえずマルクス主義に背いている、と説明できよう。マルクス主義は危険を承知で政治に関わったのだが、逆にこのとおり、政治にからめ取られてしまった。つまり、国家主義と国家とが、マルクス主義を自分たちの道具にした。だから、マルクス主義は、社会の中に諸権力を解体しようともくろんでいたのに、実際は、まったく逆に、全体主義的な諸権力の基礎になってしまったのである。また、マルクス主義は、階級の消滅を、人間どうしの和解を、そして、現実の歴史の終末を予告していたのに、実際は、まったく逆に、敵を告発し、見方を扇動するという機能を持った、敵味方を分ける*3イデオロギーになってしまった。この点で、マルクス主義は成功を収め、民族解放運動における最もすぐれた武器になり、また、計画に基づく統一国家へ向かう一番の近道になったのである。(pp.48-49)
なお、ジャン=マリ・ドムナク*4は(ジョルジュ・マルシェと同じ)1997年に他界していたのだった;


Douglas Johnson “Obituary: Jean-Marie Domenach” http://www.independent.co.uk/news/people/obituary-jean-marie-domenach-1250693.html

「の」と「なる」

近代秀歌 (岩波新書)

近代秀歌 (岩波新書)

永田和宏『近代秀歌』について、「個々の歌の解釈については、歌における言葉が醸し出すリズムが重視されている」ということを述べたのだが*1、その一つの例。
佐佐木信綱の、


ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲
について、

(前略)大和の国という大きな景の把握から、薬師寺、塔と次第に焦点を絞り、一転、そこから視線をぐんと高く、遠くまで飛ばせてひとひらの雲に移動させる。そのような対象の移動が、すべて「の」という助詞によって行われているのである。規則正しく六回も繰りかえされる「の」の音は、のびやかなリズムを与えている。
なかでも第四句「塔の上なる」の「なる」の働きが抜群だと、私自身は思っている。もし、この部分が、もう一つの「の」で繋がっていくとすると、この歌の持っている、ゆったりと景が動いていくような感じは出て来なかっただろう。景が立体感の薄い、べたっと平面的なものになっていたかもしれない。信綱がどこまで意識したのかはともかく、その研ぎ澄まされた音感が、ここ一ヵ所でのみ「なる」という助動詞を採用したのだと思いたい。(pp.140-141)
序でに、同じ佐佐木信綱が奥州平泉の毛越寺を詠んだ、

大門のいしずゑ苔にうづもれて七堂伽藍ただ秋の風*2
に触れての、

歴史的な建物、旧蹟を訪ねることは、空間的にはその「場所」に到ることでもあるが、もう一方で、「時間」を遡って、歴史を追体験することでもある。時間と空間を二つながらに移動することによって、その場を訪れることに意味が生まれる。歴史を知らないで旧蹟を訪ねても、ほとんど何の興味もわかないものだ。(p.142)
というパラグラフも書き写しておく。

「もどかしさ」(メモ)

今こそアーレントを読み直す (講談社現代新書)

今こそアーレントを読み直す (講談社現代新書)

仲正昌樹『今こそアーレントを読み直す』*1をもう長い間放置してきたのだけど、最近になって、やっと熟読し始めている。
本の冒頭近くから。


革命理論家であるマルクスエンゲルスレーニン等の文章と違って、彼女の文章には「閉塞した現状」を打破すべく読者を鼓舞してくれそうな明快さ、激しさはない。頭の中がモヤモヤしていて、すっきりしたいと思って、哲学・思想書を求める人には、決してお薦めできない。むしろ、その逆である。古代ギリシア・ローマからアメリカの建国の父たちに至るまでの古典的な政治理論や哲学に由来する――「活動action」とか「拡大された心性enlarged mentality」といった――極めて抽象的な概念を独自のニュアンスを込めて駆使し、要所要所でアイロニーを効かせている彼女独特の文体は、かなり「分かりにくい」。歴史的出来事や時事問題を扱っている文章も少なくないが、哲学的なひねりを加えすぎているせいで、政治思想研究の専門家が読んでも、結局何を言いたいのかよく分からないところが多々ある。「政治」という具体的でアクチュアルな現象について書いたはずの文章でありながら、やたらに難しい概念ばかり出てきて、「何をすべきか」教えてくれないので、もどかしい。しかし実は、その「もどかしさ」こそがアーレントの魅力である(というのが私の見方である)。(p.8)
たしかに。まあアレントのとっつきにくさの幾らかは翻訳のマジックでもあるのだけど。仲正氏の本に戻る;

「政治」について語る思想家は往々にして、読者や聞き手の共感を速攻で獲得すべく、耳に残りやすい言葉を使って、「分かりやすい」結論に一挙に引っ張っていこうとしがちである。その場合の「分かりやすい」というのは、あまりにも「明瞭な答え」を与えられて満足し、もはや自分で考える必要がないし、考える気もしない状態にさせてくれるということである。政治思想家が、読者あるいは聴衆に「代わって」考えてくれるのである。あるいは、政治思想家が、特定の政党あるいは運動体の主張の正当性を、読者あるいは聴衆のために「証明」してくれることもある。そういうのは、結局、その思想家、あるいはその思想家が支持する集団の政治的価値観に帰依してしまうことでもあるので、「哲学」というよりも「宗教」に近い営みであろう。「政治思想」に関心を持つ人の多くは、そういうことを期待しているように思われる。(p.9)
仲正氏は、「政治思想」の「分かりやすい」化の帰結としての「ステレオタイプ化」「平板化」をアレントは問題にし続けたと述べている(pp.12-13)。勿論、それは誤りではないけれど、読者に思考停止を要求するような「分かりやすい」化が前提にしているのは、或る種の(軍事的・経済的必要から導かれた)分業体制であろう。頭と手の分離。考える人と、そこから与えられた考えを余計なことは考えずに只管実行する人との分離。まあ、全員が参謀であるような軍隊が戦争に勝つのは極度に困難だとは思うけれど。アレントのテクストに即すと、『革命について』*2の後半部では「革命的伝統」について語られれいるのだが、その「革命」とはまさに上述の分業体制に対する異議申し立てでもある。また、『イェルサレムアイヒマン』で提出された「悪の凡庸性」*3アイヒマンの罪は「与えられた考えを余計なことは考えずに只管」しかも効率的に「実行する」能力を前提としたものだ。
On Revolution (Classic, 20th-Century, Penguin)

On Revolution (Classic, 20th-Century, Penguin)

Eichmann in Jerusalem (Penguin Classics)

Eichmann in Jerusalem (Penguin Classics)

『トマス・アクィナス』など

久しぶりに本を買った。

山本芳久『トマス・アクィナス 理性と神秘』岩波新書、2017

トマス・アクィナス――理性と神秘 (岩波新書)

トマス・アクィナス――理性と神秘 (岩波新書)

植村和秀『折口信夫 日本の保守主義者』中公新書、2017
折口信夫 - 日本の保守主義者 (中公新書)

折口信夫 - 日本の保守主義者 (中公新書)

若松英輔内村鑑三 悲しみの使徒岩波新書、2018永田和宏『現代秀歌』岩波新書、2014
現代秀歌 (岩波新書)

現代秀歌 (岩波新書)

Jurgen Habermas『後期資本主義における正統化の問題』(山田正行、金慧訳)岩波文庫、2018上田岳弘『私の恋人』新潮文庫、2018
私の恋人 (新潮文庫)

私の恋人 (新潮文庫)

本間正夫『たのしくあそぼう! なぞなぞ1・2年生』高橋書店、2018
たのしくあそぼう! なぞなぞ1・2年生 (あそびの本シリーズ)

たのしくあそぼう! なぞなぞ1・2年生 (あそびの本シリーズ)

宮下すずか、みやざきひろかず『ひらがな だいぼうけん』偕成社、2008
ひらがなだいぼうけん

ひらがなだいぼうけん

最後の2冊は息子のため。