淡島千景が亡くなっていた

舒明*1「示範演技的公路電影佳作」(『外灘画報』2012年3月8日、p.123)は小林政広の『春との旅*2を論じた文章。この中で女優の淡島千景*3が2月16日に亡くなっていたことを知る。彼女は『春との旅』の中では鳴子温泉で旅館を経営している、「忠男」(仲代達矢)の姉、「茂子」を演じていて、珈琲を巡る仲代達矢との問答は静かな笑いを誘うシーンであったのだが、この映画からそんな時間は経っていない筈なのだが。

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女優の淡島千景さん死去 「夫婦善哉」「駅前」で活躍

 
 「夫婦善哉」、「駅前」シリーズなどの映画をはじめ舞台、テレビでも幅広く活躍した俳優の淡島千景(あわしま・ちかげ、本名中川慶子=なかがわ・けいこ)さんが16日午前9時40分、膵臓がんのため東京都目黒区の病院で死去した。87歳。東京都出身。葬儀・告別式は26日午前11時から東京都文京区大塚5の40の1、護国寺桂昌殿で。喪主はおい中川徹也(なかがわ・てつや)氏。

 宝塚歌劇で活躍後、松竹入社。1950年に渋谷実監督の「てんやわんや」で映画デビュー。スピーディーで軽やかな演技が評判となり「自由学校」「本日休診」などの喜劇で、新しいタイプのスターの座を確立。
2012/02/16 18:14 【共同通信
http://www.47news.jp/CN/201202/CN2012021601000990.html

淡島さんの代表作はあまり観ていないことに気づいたのだが(orz)、小津安二郎の『麦秋*4にも出ていたんだね。
麦秋 [DVD] COS-022

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*1:舒明氏は香港の映画評論家で、日本映画を専門としている。

*2:Mentioned in http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110415/1302839209

*3:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070920/1190215927で間接的に言及していた。

*4:Mentioned in http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100618/1276859625

ネアンデルタール

http://d.hatena.ne.jp/shavetail1/20120301/p1


そのコメント欄に


shavetail1 2012/03/04 16:52 【追記について】
お金の誕生の話と、人類誕生あまり関係なくネ? と思われたあなた。 鋭い、その通りです。 ただ筆者の素朴な疑問がありまして。 ヨーロッパに比較的最近まで暮らしていたネアンデルタール人。彼らは出アフリカしたなら集団行動していたんでは? でも、集団行動をしなかったから我々人類に滅ぼされた、との説明を読んだことがあります。 もしかすると、分派した人類であるネアンデルタール人はヨーロッパで現代人類と混血して純血種ではなくなったってことでしょうか? ご存じの方がおられたら教えて下さい。
http://d.hatena.ne.jp/shavetail1/20120301#c1330847570
最近の研究によると、ネアンデルタール人とホモ・サピエンスの混血は中東において起こり、現代のヨーロッパ人や亜細亜人のDNAの1〜4%はネアンデルタール人に由来するものだということになっています。つまり仏蘭西人も中国人も日本人も皆ネアンデルタール人の子孫だということ;


Ian Sample “Neanderthals live on in DNA of humans” http://www.guardian.co.uk/science/2010/may/06/neanderthals-dna-humans-genome
Olivia Judson “Kissing Cousins” http://opinionator.blogs.nytimes.com/2010/05/11/kissing-cousins/
*1

上海地下鉄の起源

Monica Liau & Tongfei Zhang “Underground: The inner working of our Metro” that's Shanghai March 2012, pp.62-63


現在全長420kmと、世界最長の地下鉄網となっている上海の地下鉄だが*1、最初に上海で地下鉄建設計画が立てられたのは1956年。そのときは日常的な交通手段としてだけでなく、戦争の際に軍隊を移動させ・住民を避難させる手段として考えられていた。1964年には衡山公園*2の地下に全長660メートルの実験用のトンネルと駅が極秘に作られた。しかし文化大革命の勃発によって計画は中止され、地下鉄建設があらためて承認されたのは1986年。1号線の開通は1995年。

Rioなど

CDを2枚。

Keith Jarrett Rio

Rio

Rio

久しぶりに買ったキース・ジャレット。そしてECM
Leonard Cohen Old Ideas
OLD IDEAS

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長谷川公一『脱原子力社会へ』を読了。感想などは別途に書く予定(は未定)。

脱原子力社会へ――電力をグリーン化する (岩波新書)

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Byron Earhart先生のMount Fuji: Icon of Japan(The University of California Press, 201)が出ていることを先日知った(Stephen Mansfield “Fuji-san: reflections of Japan's iconic mother mountain” Japan Times February 26 2012)。エアハート先生は修験道の世界的な研究家なので、信仰の対象としての富士山の歴史ということになる。ところで、


As the writer explains, Japan's relationship to the mountain grew considerably more complicated in the Meiji Era, when it was co-opted as a symbol of nationalism, its matchless beauty and form endorsing the notion of a superior race. During the postwar Occupation, U.S. Censors prevented filmmakers from including shots of the mountain, a recent symbol of Japanese imperialism.
「富士山」がGHQの検閲の対象となっていたことは知らなかった。また評者のMansfield氏は自らの「富士山」との最初の出会いが東京根岸の「富士塚」すなわち「ミニチュア富士レプリカ」だったということを書いているのだが、これを読んで、笑いが込み上げてきたのだった。

「予言」的?


斎藤美奈子*1「日本経済沈没の予言の書〜小松左京日本沈没』(一九七三年)の巻」『scripta』18、pp.2-4


曰く、


一九七三年は第一次オイルショックの年である。第四次中東戦争の影響で原油価格が高騰、石油の供給制限によってモノ不足が起こるとの噂が立ち、トイレットペーパーの買いだめに走る人々の列ができた。歴史年表式にいえば、いわゆる高度経済成長は、ここでストップしたのである。
とはいえ、第四時中東戦争が勃発したのは、一〇月六日。当時の田中角栄内閣が「石油緊急対策要綱」を閣議決定したのが一一月一六日。省エネ策の一環としてテレビの深夜放送が停止されたり、街のネオンが消えたり、トイレットペーパー騒動が起こったりしたのはその後の出来事だ。
同年一一月に出版された五島勉ノストラダムスの大予言』(祥伝社ノン・ブック)が二五〇万部にも達するベストセラーになったのも、偶然ではなかったかもしれない。副題は「迫りくる1999年7の月、人類滅亡の日」。当時の小学生や中学生には相当なインパクトを与えた。七〇年代の中〜後半というのは、案外と末法思想な時代だったのだ。
が、今回のお題はノストラダムスではなく、同じ七三年にカッパ・ノベルス(光文社)の一冊として出版された小松左京日本沈没』である。小学館文庫版の開設を担当したSF作家の堀晃氏によれば〈年末までに、上下巻合計四百万部という空前の記録を作っている〉。出版されたのは三月、オイルショックノストラダムスより半年以上前だった。「末法思想」を先取りした小説であり、半年後に日本経済が沈没することを思えば、予言の書だったといえるかもしれない。(p.2)
日本沈没』が「予言の書」だというのだが、2012年に読むと、何やらこの斎藤美奈子のこのテクストが「予言の書」めいてくる。この雑誌の発行日は2011年1月1日。つまり小松左京が亡くなる約8か月前である*2。また斎藤さんは

日本沈没』から四〇年弱。その後の日本列島は、実際にも、小説に描かれているような人的被害をともなう天災をいくつも体験した。大島の三原山の噴火(一九八六年)。雲仙普賢岳の噴火による火砕流(一九九〇年)。阪神淡路大震災(一九九五年)。三宅島の噴火(二〇〇〇年)。(p.4)
とも書いている。311の約2か月前。

映画版『日本沈没*3は1974年のお正月映画。もう1本のかなりお気楽な映画と同時上映だったと思う。
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トーキーやカラーも問題?

東京新聞』の記事;


ダメなの?13歳投書に反響 漫画VS本


2012年3月3日 朝刊

 「何で本は読まなきゃいけなくて、漫画はダメなの」「そもそも漫画と本の違いって」−? 十三歳の中学生が本紙に寄せた投書が、反響を呼んでいる。六十歳の男性が「本は思考力を養う」と読書を勧めると、四十七歳女性が「思考力は本でも漫画でも養われる」と反論。古くて新しいこの論争、漫画や本の世界に携わる人たちはどう考える? (岩岡千景)

 投書は、東京都港区の中学生須藤美佳さん(13)から。漫画を読んでいると母親から「本をいっぱい読みなさい」と言われるといい、抱いた疑問をつづった文が、二月六日の発言欄に載った。

 これに、静岡県熱海市の会社員小磯清さん(60)は「大きな違いは絵がないこと」「絵がなければ、情景を頭の中で描きながら読む。それこそが思考力」と読書を勧める。すると東京都武蔵野市の自由業、田中ヒサコさん(47)が「漫画も思考力を養う」と意見を返し、発言欄で反響が続いた。

 漫画と活字の本、それぞれの分野で活躍する識者は、この論争をどうとらえるか。

 「漫画は古くからある日本の文化。漫画をバカにするのは歌舞伎をバカにするのと同じ」。そう話すのは、『新・絶望に効く薬』(光文社)などで若者に人気の漫画家、山田玲司さん(46)。「平安時代源氏物語絵巻などの絵巻物に始まり、浮世絵、ポンチ絵(江戸末期の漫画絵)、児童漫画と、絵と文字を組み合わせた文化の歴史は古い」と話す。

 今や漫画は「クールジャパン」(かっこいい日本)と呼ばれる日本文化の代表で、海外では小説以上に評価が高い。また岩崎夏海さんの『もしドラ』や、ライトノベルと呼ばれる本は、漫画と中身や構成がほとんど変わらない。

 こうした事情を挙げ、山田さんは日本の漫画の質の高さを力説。「将棋を指す時と映画を見る時では脳への刺激が違うように、違いはあっても善しあしはなく、どちらも人生のお楽しみ。両方を楽しんで」と助言した。

 また『マンガの教養』(幻冬舎新書)の著書がある学習院大教授(フランス文学)の中条省平教授(57)も「物語性の深い漫画は日本に独特。文字と絵を同時に理解し、一コマの中身が複雑な作品も多く、読解力が必要で、読んだ経験は絶対にプラス」と話す。

 その力は「漢字を読む能力と似ている」とも。「日本人は、中国から入ってきた漢字を音で理解するだけでなく、訓として日本語でも理解し、音声と観念を同時に認識している。漫画も意味伝達の構造は似ていて、その創造性は大事にしたい」

 一方、『心を育てる朝の読書』(教育開発研究所)著者で、学校で始業前に本を読む「朝読書」を推進してきた元高校教諭の林公(ひろし)さん(68)は「入学試験を受けるにも、人とコミュニケーションを取るにも、生きていく上で言葉は不可欠。漫画も、言葉があってこそ中身が理解できる。小中学生は言葉の力が身に付く大事な時期。漫画もいいが、まずは物語などの本を読み、言葉の力を蓄えて」と説いた。
◆須藤さんの投書の要旨

 私は漫画が大好きだ。でも、ずっと漫画を読んでいると母は言う。「漫画ばっかり読むな!」。そして「本をいっぱい読みなさいね」。そういう時、私はいつも思う。「何で本はいっぱい読まなきゃいけないのに、漫画は読んじゃだめなわけ?」と。そもそも漫画と本の違いって何だ。絵が付いているか、いないかだけじゃないか! 大人は何の根拠もなしに「漫画はあまりいいものではない」と決めつけているだけだと思う。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2012030302000191.html

これは昔から燻っていた論争ではあるな。それが21世紀になってもまた反復されているということに驚くべきか。「絵巻物」から日本の漫画の歴史を云々するというのも或る種の常識に属してはいる*1。また漫画というか「絵と文字を組み合わせた文化」と漢字との関係を巡っては、あの呉智英*2も常々言っていることではなかったか。より学術的に洗練されたものとしては、前田愛*3(『都市空間のなかの文学』)或いは由良君美(『言語文化のフロンティア』*4)とか。
都市空間のなかの文学 (ちくま学芸文庫)

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言語文化のフロンティア (講談社学術文庫)

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ところで、こうはいえないだろうか。「漫画」は文字に依存しすぎているが故に想像力の発達を阻害すると。絵というかヴィジュアル・イメージはロラン・バルト流に言えば、コードなきメッセージだと取り敢えずは言えるだろう(cf. eg. 「映像の修辞学」)。「漫画」において「絵と文字を組み合わせ」ることは、〈コードなきメッセージ〉にコードを押しつけて解釈の可能性を狭く限定してしまうことなのでは? だとしたら、「漫画」は文字への安易な依存を断ち切って、純粋な〈絵本〉を目指すべきなのでは? また映画に台詞が被さって〈トーキー映画〉が誕生したとき、そこに反動的なもの或いは映画の〈堕落〉を感じ取った人も多かった筈なのだ(例えば『視覚的人間』のベラ・バラージュ)。Michel HazanaviciusのThe Artistがオスカーを獲ったのを契機に*5、トーキーやカラー映画は想像力を阻害するから白黒・無声映画に戻れ! という論は出てこないのだろうか。マジにいって、実験として、1か月間TVから音声と色を抜いてしまったら、かなり面白い結果になるぞ。
映像の修辞学 (1980年) (エピステーメー叢書)

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視覚的人間―映画のドラマツルギー (岩波文庫 青 557-1)

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See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20120124/1327375315