永田洋子

連合赤軍*1については去年何かしら無駄口を叩きたいと思っていたのだが、その機会を逸してしまった。そういうことを思い出した。
『毎日』の記事;


連合赤軍事件:永田洋子死刑囚が死亡 65歳

 山岳アジトでのリンチ殺人などの連合赤軍事件(71〜72年)で死刑が確定した元連合赤軍最高幹部の永田洋子(ながた・ひろこ)死刑囚(65)=東京拘置所収容=が5日午後10時6分、多臓器不全のため同拘置所内で死亡した。法務省が6日発表した。

 法務省や支援グループによると、永田死刑囚は84年7月に脳腫瘍と診断され手術を受けた。06年3月には再手術を受けたが昏睡(こんすい)状態となり、同年5月に八王子医療刑務所に移された。約1年後に東京拘置所に戻されたが、脳萎縮の状態だった。今年1月下旬に多量の嘔吐(おうと)とともに血圧や心拍数が低下。酸素吸入などを施していたが、今月5日午後に心停止状態になり、夜に死亡が確認された。

 確定判決によると、永田死刑囚は71年12月〜72年2月、群馬県の山岳アジトで「総括」と称し、仲間を殴打したり厳寒の戸外に手足を縛って放置するなどして計12人を死亡させた山岳アジト事件や、グループから離脱した男女2人を絞殺した印旛沼事件などで殺人罪などに問われた。永田死刑囚は72年2月に逮捕されたが、坂口弘死刑囚(64)ら残ったメンバーがあさま山荘事件を起こした。

 1審・東京地裁は82年、「犯行は規模、回数、残虐性について比類がなく、損害も甚大」として、永田、坂口両死刑囚に死刑を言い渡した。最高裁は93年、1、2審の死刑を支持し、判決が確定。永田死刑囚は01年に再審請求したが、06年に棄却された。【石川淳一、武本光政】
http://mainichi.jp/select/jiken/news/20110206k0000m040111000c.html


永田死刑囚死亡:先鋭化、闘争の果て…「総括」同志ら殺害

 先鋭化した武力闘争で71〜72年に起きた一連の連合赤軍事件の指導者、永田洋子死刑囚(65)が5日、静かに息を引き取った。銃と暴力で血塗られた革命思想は「総括」と称して仲間を死に追いやり、あさま山荘での壮絶な銃撃戦で途絶えた。事件から40年。かつての最高幹部の死は一つの時代の終わりを告げた。

 群馬県榛名山や迦葉山の山岳アジトなどで12人の同志の命を奪った「山岳アジト事件」(71年12月〜72年2月)。永田死刑囚は同志の指導者として次々とメンバーに「総括」の名の下に自己批判を迫った。総括はエスカレートし、他のメンバーに「総括援助」と称して暴力を加えさせるようになった。

 取り囲んで殴打し、緊縛して極寒の山中に放置した。死亡すると穴に埋めた。兄弟でアジトに潜伏した同志もおり、弟は兄を泣きながら殴った。妊娠8カ月で暴行を加えられて死亡した女性もいた。

 13人の殺人罪、1人の傷害致死罪に問われた。1審公判で非を認め、反省を口にしたものの、証人尋問で当事者を前に大声で笑い、判決では「人命蔑視の精神を表すものとして見逃すことができない」と指摘された。2審では「武装闘争は今後も起こる。連合赤軍武装闘争の経験の総括も、今後の闘争に生かさなければならない」とも語っていた。

 裁判では「自分一人の責任ではない」と、元被告(獄中自殺)に責任をかぶせたが、82年には獄中で「十六の墓標」を出版し、革命家としての自身の半生を詳細につづった。獄中からの作品発表は多く、モデルにした映画も公開された。

 一方で、84年には控訴審公判中に椅子から滑り落ちて倒れるなど、脳腫瘍の症状が表れた。93年には「腫瘍の治療が行われていない」として、病院への移送と、国と手術した病院に慰謝料を求める訴訟も起こしていた。【石川淳一
http://mainichi.jp/select/jiken/news/20110206k0000m040114000c.html

永田洋子というと、大塚英志の『「彼女たち」の連合赤軍』を思い出すけど。
「彼女たち」の連合赤軍―サブカルチャーと戦後民主主義

「彼女たち」の連合赤軍―サブカルチャーと戦後民主主義

第1審だったか第2審だったかの判決文がすごい性差別的なステレオタイプに充ちたものだったという記憶がある。そのときは、死刑はお前だろ、この馬鹿裁判長め! とも思ったのだった。あの惨劇は〈女性性〉には勿論のこと、永田洋子のパーソナリティにも、さらには連合赤軍毛沢東主義だかなんだかのイデオロギーにも還元できないものだろう。坪内祐三はその回想録『一九七二』のかなりの部分を連合赤軍に割いているのだが、彼の

(前略)「総括」という名のもとに行われた連合赤軍のリンチ殺人事件は、異常ではあっても狂気ではない。高度成長の後期の時代の奇妙な解放感とその裏返しの閉塞感の中で、革命を目指した若者たちが、その反市民性によって、闇へ闇へと追いやられ、最後には山奥のアジトへ引き籠り、その密室の中で、誰もが持っている小さなエゴがぶつかり合い、そのエゴは、一番権力を持つエゴによって止揚を求められ、「総括」されていったのだ。(pp.97-98)
という評価は妥当だろうと思う。また、坪内氏は「受験戦争風の能力主義が支配し、遠山同志を批判しないものは、共産主義化におくれていく、なんとしても自分を強くしたいという強迫観念にも似たものに追いたてられているように感じていました」という坂東国男の言葉を引用しているのだが(p.137)、私は連合赤軍って〈体育会〉じゃんと思ったことがある。1970年代前半には、連赤とは正反対の政治的立場だったであろう体育会・応援団系の(死者も伴った)〈しごき〉事件も問題になっていたのだ。その意味では、最近の角力部屋の〈かわいがり〉やブラック企業労務管理といった〈体育会〉系組織の暴走を、連合赤軍は先駆的且つラディカルに生きてしまったのかも知れないのだ。なお、鹿島茂

ある共通の思想をもった党派の人間たちが一つの権力の打倒をめざすとする。そういう集団って、思想において卓越した人間がリーダーになるかっていったら、そうじゃない。どういうヤツがリーダーシップをとるかというと、やたらと禁欲的で糞頑張りできるヤツ。根性のあるヤツ。そういうヤツがリーダーシップをとる。
それで、どういうことになるかというと、赤軍派の内部で起こったように、禁欲的であればあるほど、オレのほうが勝ちだって、そういう理屈がまかり通っちゃう。
という言葉も引用されているが(p.75)、これもかなり教訓的。
連合赤軍問題に関する研究書としては、パトリシア・スタインホフ『死へのイデオロギー』の後に、何か出ているのだろうか。
死へのイデオロギー―日本赤軍派― (岩波現代文庫―社会)

死へのイデオロギー―日本赤軍派― (岩波現代文庫―社会)

因みに、上の『毎日』の記事に出てくる「印旛沼事件」は連合赤軍結成以前の革命左派の粛清事件。

春はなし

『毎日』の記事;


八百長問題:春場所中止 相撲協会が決定

 大相撲の八百長問題で、日本相撲協会は6日、東京・両国国技館で臨時理事会を開き、大相撲春場所(3月13日初日、大阪府立体育会館)の開催中止を決めた。本場所の中止は旧両国国技館の修理が間に合わなかった1946年夏場所以来、65年ぶり2度目。不祥事による中止は初めて。

 協会は、八百長問題の解明が進まない中で、本場所を開くことは国民の理解を得られないと判断し、開催を断念したと見られる。
http://mainichi.jp/enta/sports/general/news/20110206k0000e050039000c.html

八百長問題」については、


Justin McCurry “Sumo wrestling hit by match-fixing scandalhttp://www.guardian.co.uk/world/2011/feb/02/japan-sumo-wrestling-match-fixing
HIROKO TABUCHI “In Text Messages, Signs of a Rigged Sumo Fight” http://www.nytimes.com/2011/02/05/world/asia/05sumo.html


で知る。昨年の野球賭博問題*1の余波か。
NYTの記事で引用されている石原慎太郎*2のコメントはお茶目でいいね;


Some sumo fans, however, said match-fixing was all part of the game.

“It’s been going on from the old days,” Shintaro Ishihara, Tokyo’s 78-year-old governor, told reporters Friday. “We should just let them trick us into enjoying it,” he said, adding, “It’s just like Kabuki theater.”

と石原を褒めてしまったところで、幾つか無駄口。
古寺多見氏が1980年代に『週刊ポスト』がやった四季の花手記を中心とする「大相撲八百長キャンペーン」について書いている*3。そこで思ったのだが、四季の花というのは「八百長」の仲介人をやっていたということだったのだ。しかし、今回発覚した「八百長」では、力士同士がケータイのメイルを使って打ち合わせをしている。IT革命恐るべし! 一般経済と同様に、「八百長」でも仲介業者を排したC2CというかB2Bの直接取引が成立している! 但し、今回メイルから足がついてしまったということは、IT革命の落とし穴?
ところで、NYTの記事にもSteven D. Levitt とStephen J. DubnerのFreakonomicsの話が引かれている。経済思想さんに教えていただいた『毎日』の「余録」に曰く、

余録:八百長メール発覚

 米国で6年前にベストセラーになったシカゴ大学の経済学者、S・レビット教授らの本には相撲の八百長の分析がある。3万以上の取組データから7勝7敗と8勝6敗の力士の千秋楽の対戦を調べたのだ(邦訳「ヤバい経済学」東洋経済新報社)▲過去の対戦結果から7勝7敗の力士が勝つ確率を計算すると48.7%で5割を下回る。だが実際の勝率は79.6%と8割近かった。むろん勝ち越しをかけて懸命だったからとも解釈できる。ただ面白いのはその2人が次の場所で勝ち越しのかからぬ対戦をした場合だ▲前回、7勝7敗だった力士は40%しか勝っていない。さらにその次の対戦は約50%と、確率的な“正常値”に近づいている。気鋭の若手経済学者ならずとも、星の貸し借りがあったと推測ができる。同著は過去の八百長の告発事例もこの確率論で検証してみせていた▲「星を借りてるよね」「ダメなら20万は返して」「立ち合いは強く当たって流れでお願いします」。こんな力士のメールが発覚しては、これまで相撲協会がくり返してきた八百長の否定はいったい何だったのかとしらける。無気力相撲どころか気力充実の熱演である▲携帯電話での八百長をうかがわせるメールにかかわっていたのは幕内力士をふくむ13人という。いよいよ存亡の土俵際に追い込まれた相撲協会は真相の徹底的究明を約束したが、泣きたい気分なのは相撲ファンの方である▲レビット教授らは、過去に八百長疑惑が浮上した際の次の場所では力士の勝率の異常が急に解消したことも皮肉交じりに書いている。異国の学者に舞台裏を見透かされた「国技」が情けない。
http://mainichi.jp/select/opinion/yoroku/news/20110203k0000m070102000c.html

「情けない」のは(『毎日』を含む)日本のブンヤだろうとはいいたいけれど、それはともかくとして、実は1980年代に、電卓を持って図書館に数日間籠もって過去20年間の新聞縮刷版を捲りに捲って、千秋楽における7勝7敗力士の勝率を計算した人はいるのだ。その人は経済学者でも統計学者でもなかったので(映画研究者)、論文は書いていないけれど。その話はアテネ・フランセ文化センターのトークの際に披露されたのだが、確率論的に怪しいということは、俺を含む一部の映画ファンは20年以上前から知ってはいた。ただ、その話によると、勝率は9割近くになるということだった。統計に頼らなくても、前頭の下位から十両に定住する力士というのも少なからずいたしね。重要なのは「星の貸し借り」をするためには演技力が必要だということ。あまりにもあからさまだったら〈無気力相撲〉による注意処分というのもあったわけだし。ということで、ガチンコしかできない演技力のない力士も当然ながらいたわけだ。また、角力の基本的な技能を身に着けていない幕下未満の力士には「星の貸し借り」は無理だという話だった。

*1:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100705/1278260670 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100706/1278428975

*2:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060410/1144636844 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060430/1146374995 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060831/1157027021 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060918/1158548179 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061106/1162827266 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061111/1163243740 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061118/1163845906 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070225/1172421318 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070306/1173200489 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070415/1176606885 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070418/1176869274 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080114/1200293046 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080305/1204725934 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080614/1213420843 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080726/1217051072 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090208/1234026998 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090706/1246825752 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091002/1254502738 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091129/1259488849 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100305/1267767495 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100419/1271645099 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100420/1271729350 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100423/1272044223 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100426/1272309085 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100606/1275759613 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100619/1276975557 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100620/1277038368 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100903/1283488570 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100925/1285387758 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101019/1287455134 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101205/1291518836 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101208/1291778596 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101210/1292006456 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101215/1292353461 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110120/1295532154

*3:http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20110203/1296689868

若林幹夫『郊外の社会学』

郊外の社会学―現代を生きる形 (ちくま新書)

郊外の社会学―現代を生きる形 (ちくま新書)

若林幹夫『郊外の社会学――現代を生きる形』は昨年末に読了した本。


序章 郊外を生きるということ
第一章 虚構のような街
第二章 この立場なき場所
第三章 郊外を縦断する
第四章 住むことの神話と現実
第五章 演技する「ハコ」
結章 郊外の終わり?


あとがき
主要参考文献

序章では、著者の生い立ちが語られる;

高度経済成長最中の一九六二年、東京の「郊外」としか呼びようのない多摩地区の南部、新宿から私鉄の小田急線の急行で四〇分ほどの、神奈川県の横浜市川崎市相模原市と接する町田市で、私は生まれた。
小学校、中学校と地元の学校に通い、高校から大学院までは小田急線から他の電車に乗り継いで、都内――東京で「都内」といえば二三区内のことだ――の学校に通っていた。最初に勤めた東京工業大学も目黒区だったので町田から通った。その後に勤めた筑波大学茨城県つくば市にあった。当時のつくば市内に鉄道の駅がなく、東京の郊外とは言いがたかったが、七〇年代に計画的に作られた文字通りのニュータウンで、その風景は私にとても身近だった多摩ニュータウンによく似ていた。筑波大学時代の前半はつくば市に公務員宿舎を借りてつくばと町田と半々に暮らし、後半は結婚を機につくばと東京のほぼ中間の千葉県流山市に転居して、今もその街に住んでいる。流山と町田とは、東京都心を挟んでちょうど反対側にあたる。
こうして私は、これまでほぼずっと東京の郊外で暮らしてきた。この意味で、生粋の”郊外っ子”といっていいかもしれない。私の両親も町田市の出身で、双方の先祖代々の墓は地元の古くからの寺にある。だから私は、郊外の旧住民の子供ということになる。旧住民の子供というのが郊外において”生粋”の要素になるかどうかは議論の余地があるにしても、ずっと郊外と呼ばれる場所と社会で生きてきた。(pp.11-12)
また、「郊外と遺跡」との「深いつながり」について(pp.15-16)。その話から本書全体に関わることとして、

(前略)郊外やニュータウンや新興住宅地といえば、たいした歴史もなく、薄っぺらな風景が広がっているというのが通り相場である。どこにでもあるような家の立ち並ぶ、どこにでもあるような街。だが、その薄っぺらな風景のなかにも、現在に向けて積み重ねられ、生きられた厚みがある。郊外という場所と社会に私たちがみて取ってしまう薄っぺらさも、そのような積み重なりのなかで作り出され、生きられている薄っぺらさなのだ。(pp.17-18)
第一章では、「郊外」の「虚構」性が語られる――(「郊外」において)「人びとの生を支えているのは、土地でも共同体でも風土でもなく、住宅産業のカタログに象徴される高度資本主義消費社会のメカニズムなのだ」(p.32)。

近郊の農地や山林を切り開き、他所からやってきた都市勤労者世帯のために家々が立ち並ぶ郊外には、そこに暮らす人びとにそもそも共有された歴史も伝統も、よってたつべき共通の文化や風土も存在しない。一九六〇年代から七〇年代の大都市周辺に作られた箱型の団地や、丘陵や畑を造成した分譲地に建てられた建売住宅は、そのあからさまな装飾のなさや機能性によって、郊外住宅地やニュータウンの歴史や伝統のなさをはっきりと示している。
それに対して多摩ニュータウンポストモダンな団地や、色とりどりの可愛らしいショートケーキハウスは、そのデザインの過剰さによって、実用本位で味も素っ気もなかったかつての団地や建売住宅に対するアンチテーゼを提示しているようにみえる。にもかかわらず、南欧の山岳都市をイメージしたというベルコリーヌ*1の書き割りめいた景観や、ヨーロッパの昔話を可愛らしく加工したディズニーキャラクターを配することによって「可愛い家」を演出してしまう郊外住民たちのキッチュな臆面のなさは、二〇世紀の社会が生み出した「郊外」という場所とそこに存在する社会の歴史や伝統、文化や風土からの訣別を、見事に示している。まるで模型のようなその景観デザインや紋切り型の可愛さの演出は、そもそもなんの歴史的な記憶も伝統も文化ももたないがゆえに、そうした記号やイメージを欲望してやまない、郊外という場所と社会の根無し草性を示しているのではないだろうか?*2 (pp.29-30)
また、ここで留意すべきなのは、「郊外化」の2つの段階がさりげなく言及されていることだろう。
第二章のタイトルは、「郊外という都市の周辺であり、都市と農村や地方の間である場所は、かつてあったものが「もはやないこと」と、新たに到来すべきものが「いまだないこと」の間の両義的な場所として現れる。それはすでに失われていることと、いまだ存在しないこととの間の場所である」(p.66)という一節に由来するか。このことは第四章以降で本格的に論じられるのだが、この章では先ず「郊外」の(歴史性を踏まえた)定義が提示される;

郊外とは、単に都市の近郊のことではない。二〇世紀の産業化のなかで都市で働く人びとが増え、都心に通勤する人びとの居住に特化した住宅地が、その近郊に形成されていった。都市に付属し、都市と通勤や通学、買い物や娯楽などの行き来によって結びついた、そんな住宅地中心の場所。それが現代の郊外である。ちなみに、郊外を意味する英語のサバーブsuburbは、「都市的なもの」を意味するurbanの語根であるurbに、「〜の下に」や「〜に付随する」を意味する接頭辞subが付いたものである。語源的には郊外は、都市の”おまけ”のような場所なのだ。都市の周囲の分厚いおまけ。それが現代の郊外である。
都市の近くであってもそこから人びとが都市に通勤しない農村は、この意味では「郊外」とはいえないことになる。たとえば現在のような職住分離も雇用労働者も存在しなかった日本近世にも、都市――当時の言い方ではマチや城下――とその周辺の近郊農村――ムラ――の間には、農村が都市に野菜などの食料や住み込み奉公人などの労働力を供給し、都市の方は生塵や排泄物を肥料として農村に供給するという相互依存関係があった。だが、いくらそのように結びついていても、近郊のムラはマチの郊外ではない。武士や町人が近郊のムラから城下に通勤していたのではないからだ。日本の場合、明治維新以降、都市で働くサラリーマンを中心とする雇用労働者が増加するにつれ、都市近郊が次第に郊外化していった。そして第二次世界大戦後の産業化と地域社会の再編のなかで、東京・大阪などの大都市の周辺に、「ベッドタウン」としての郊外が形成されていったのである。(pp.40-42)
そして、三浦展*3(『マイホームレス・チャイルド』、『「家族」と「幸福」の戦後史』、『ファスト風土化する日本』)、川本三郎*4(『郊外の文学誌』)、宮脇檀(『都市に住みたい』)、布野修司(『住宅戦争――住まいの豊かさとは何か』)、隈研吾(『負ける建築』)の反「郊外」的言説が批判的に紹介される。そして、「郊外」の「両義性」;

社会や地域社会の明確なカテゴリーやイメージにうまく収まり、すでに正統化された文化や伝統、価値観を示すという意味で、都心も農村も地方も、現実にはさまざまな矛盾を抱えているとしても、中心的な価値の場所である。それに対して都市周辺にたかだか十数年から半世紀くらいの間に形成された新興の住宅地である郊外は、その地理的な位置においても、文化や社会の根の浅さ、いわゆる「歴史と伝統」の不在においても、都心や農村、地方からみるとどこか胡散臭い、周縁的で両義的な場所なのだ。(p.65)
「家族」と「幸福」の戦後史 (講談社現代新書)

「家族」と「幸福」の戦後史 (講談社現代新書)

ファスト風土化する日本―郊外化とその病理 (新書y)

ファスト風土化する日本―郊外化とその病理 (新書y)

第三章では、「郊外」の「均質性」と「非均質性」が、著者が沿線に住み、通勤に使用している「つくばエクスプレス*5を通して検証される。
第四章では、主に高度経済成長期から1970年代までの「郊外化」に焦点が当てられる。「団地」の社会学的意義――「単に不足していた家を増やすのではなく、それ以前にはなかった「家族」や「個人」のプライバシーを地域や近隣から切り離して確保する空間と、それによる家族や個人の地域からの解放を、団地は生み出したということである」*6(p.124)。さらに、

団地がひとつの夢や理想としてありえたとして、さらにその先には「住宅双六」の上がりとしての郊外一戸建て住宅があったのである。「団地ライフ」と共に「一戸建てのマイホーム主義」もまた、戦後の郊外を意味づけ、その現実を作り出していった神話である。(p.126)
また、「郊外」におけるお祭り。特に1973年に始まった町田市の「市民祭」、「23万人の個展」*7(pp.139-141)。それらとそれらに参加した人々について、

こうした人びとの姿は、新たに移り住んだその地域とそこに住むことのなかに新たな意味を見出したいという、住民たちの意志や欲望を示していた。そこには、高度経済成長を経て巨大化する東京郊外で、自治体も住民も新しい社会のあり方を模索し、夢見、それを生きようとしていた「郊外の神話時代」の雰囲気さえ感じられる。そこで夢みられていたのは、もともと地元にあった地域社会や、それをモデルとする「新しい地域」ではない。いまだ来たらざる新しい社会としての郊外が現にここに現れつつあるのだという神話、土地の神とも闇とも結びつかない、白々とした太陽の下で幻視された「郊外の神話」なのだ。(p.142)
という。また、

(前略)当時の町田を呼ぶときの代名詞のひとつに「団地の町」がある。そして、団地の建設による自然破壊、人口増加による学校不足、通勤バスや通勤電車の猛烈な混雑や交通渋滞は、自治体としての市当局にはむしろ危機的状況として捉えられていた。だがしかし、そのような危機的状況であったからこそ、そこには既存の地域とは異なる”何か”への期待もあったのだろう。一九七〇年代の町田では、市民祭以外でも地域教育や文化・スポーツ活動で、既存の枠組にとらわれない住民リーダーと自治体の連携で、さまざまな先駆的な試みが行われていた。フィールドアスレチック施設のある公園、市民オペラ、自然学習のための施設作りと実践、市民による花と緑の会の活動など、今となってはどこにでもありそうなごく当たり前の、だが当時としては先進的で、”前衛的”ですらあった試みがなされていたのである。それはちょうど、市全体が新しい郊外の神話を夢見、具体化しようとする祭りのなかにあったかのようだ。(pp.142-143)

(前略)一九六〇年代から七〇年代の大都市郊外では、生活する場を共にすることで人びとを「同じ」にする社会、同じような人びとが共にある社会ではなく、違う場所で生まれ、たまたまある場所で共に暮らすことになった人びとが、日々通勤や通学の電車やバスで長い距離を行き来するという、社会の共異体=共移体としてのあり方があらわになりはじめていたのだ。そうであるからこそ、そこでは「異なる人びと」が「同じ場に暮らす人びと」となることを梃子にして新しい共同体を作ることが欲望されたのだ。それが多くの人びとにとって未知の社会であり、また多くの人びとのなかに共同体的な地域や社会の記憶があったからこそ、そこでは来るべきコミュニティが神話としてのリアリティをもちえたのである。(pp.155-156)
第五章では(バブルとも重なる)1985年以降の「第二次郊外化」に焦点が当てられる。ここで鍵言葉となるのは「演技」ということになるだろう。「演技」の「舞台」としての郊外の住宅――

そもそも郊外は、都心に通勤する雇用労働者とその家族が土地や家を商品として購入し、さらにそのなかにさまざまな日用品や贅沢品やらを商品として購入して並べ、生活してゆく場所である。もともとあった近郊社会の地域生活とも、自分たちのいなかや故郷とも切り離された人びとが、ライフスタイルと生活と文化を、市場で購入した商品によって作り上げてゆくのが郊外なのだ。そのためにまず手に入れられ、彼らの生活がその上で展開される舞台となり、さまざまなモノがそこに配置されるコンテクストとなる”最初の商品”が住居なのである。(p.175)
「郊外」の新たな「祭り」としての「クリスマス・イルミネーション」;

郊外住宅地のクリスマス・イルミネーションは、郊外住宅地における”新しい祭り”である。第一次郊外化のなかで、いまやオールドタウンとなりつつある七〇年代を中心に開発された新興の郊外住宅地や団地やニュータウンに(略)神々のいない祭りや、お盆と関係のない盆踊りが広がっていったように、第二次郊外化は出窓や小人やガーデニングや庭でのバーベキュー・パーティと一緒にクリスマス・イルミネーションという新しい祭りを、個々の住宅とその居住者を演出家・兼・演技者として普及させていったのだ。
だがしかしこの祭りには、伝統的な地域の祭りには当然のようにあり、ニュータウンの白々した祭りにもまた存在した人の共同や協働がない。そこには家族をこえて人びとが共に集い、共に働き、そのことによって時間と場所を分かち合うということがないのだ。たしかに[町田市]三輪緑山のような「名所」ともなれば、交通渋滞を起こすほどの人や車が集まったりすることもあるのだが、そこに集まるのは個々ばらばらの人びとがたまたま場所を同じくした「群集」と呼ぶべきもので、嫌々であれ共に祭りを主催し、参加する人びとの共同で協働するつながりはないのだ。イルミネーションをする側も同様で、個々の家が個人的に自分の住居を飾っているにすぎない。(略)そこにあるのは共同や協働ではなく、むしろ哲学者のサルトル社会学者の見田宗介が「集列体」と呼ぶような*8、ばらばらな人びとが孤独なまま共にあるというあり方に近い集合性なのだ。
この集列体は(略)共異体=共移体でもある。共異体=共移体を生きる人びとにとって、共通の文化や環境は地域のなかにではなく、地域を越えたメディアや大衆消費文化のなかにあるのである。(pp.179-181)
また、それは「そこに、楽しく、個性的な暮らしを楽しむ「家族」という共同体があることを、演技性と演出性を通じて自己と他者に表示する神話的形象」(p.190)でもある。
ただ、1970年代の「23万人の個展」も実は「集列的な祭り」だった。しかし、「非日常的で祝祭的な時間と空間のなか、各自の手作りの作品を持ち寄り、趣味を披露しあうことで新しい共同や協働へとつながりうるものが見出されるのではないかという期待や予感が存在していた」(p.182)。

郊外は、かつて予感され、夢みられたコミュニティではなく、商品化された住宅や住宅地に生きる人びとの暮らしを、さまざまな商品とそれに付与されたイメージを通じて意味づけ、形作ってゆく「意味創造」と「文化変容」の場所として”成熟”していったのである。郊外生活者たちは、出窓とレースのカーテン、ショートケーキハウスやおしゃれなマンション・団地を舞台に、ガーデニングされた庭やベランダとそこに並ぶ小人やウサギの置物たち、そしてクリスマスのイルミネーションによる「個展」を私的な空間で行うようになった。(略)「ガーデニング」という言葉も、第二次郊外化が進み始める一九八〇年代後半から、「園芸」や「造園」といった言葉に代わって使われるようになった言葉だ。(後略)(pp.185-186)

(前略)郊外という場所と社会で人は、既存の近郊地域社会とも、自らが後にしてきた故郷=いなかとも切り離されて、家という商品を買い、さらにさまざまな商品を買い入れて家の内外に並べることで「私の生活=人生*9」形作ってゆく。郊外化は、もともとその土地にあったローカルな社会を、特定の土地への帰属を欠き、特定の建築様式や生活様式とも異なる、標準化され、工業化された住居と生活様式からなるものへと置き換えていった。団地も、分譲住宅地も、そこに暮らす家族も特定の土地に根ざしたという意味でのローカルなものではない。それは確かにある場所に存在するけれども、どこにあってもいい、どこにでもある場所や存在なのだ。
郊外住民の多くは自分の住む家を、職場のある場所からの距離や交通の便、部屋の間取り、スーパーやコンビニなどの近隣の施設、そして支払い可能な価格帯にあるかどうかといった点から選ぶだろう。同じような条件の「物件」は、都心を中心とする同心円上の特定の距離帯と、都心から伸びる通勤電車の交わる場所に分布することになり、そのなかから気に入る、あるいは妥協可能な「物件」を購入することになる。それがどの街の、どんな場所にあるかは、ここではいわば”偶然”なのだ。私や私の両親のような旧住民でも、サラリーマン化してしまえばそれは変わらない。たとえ住んでいる土地が先祖伝来のものだとしても、そこに住んでいる理由は「たまたまそこに土地があったから」に過ぎないからだ。郊外住民にとって、ある場所に住んでいるということはなんら必然的なことではなく、たまたまそうであるという偶有的な事態として現れる。(略)
「郊外」は、「都心周辺地域の、都心に通勤する人びとの居住に特化した地域」という意味ではたしかに場所的、地域的概念だが、地名のような固有名で名指される意味での場所や地域ではない。それは都心との位置関係によって、その周辺に広範に見出されるような場所や地域であり、また、異なる都市の周辺に存在しながらも同じ「郊外」や「ニュータウン」といった名で呼ぶことが可能であるような、国土の広範囲にひろがる場所や地域である。郊外にある個々の地域や住宅地は、たしかに場所として存在してはいるが、他の場所とは異なる代替不可能な「固有の場所」としての強度をもたない、大衆化した資本主義社会に普遍的に広がった社会様式と共にあるような場所なのだ。(pp.191-192)
「不動産市場おける商標」としての「地名」(p.193)。
「結章」では「郊外化」の終焉が語られる。(地方から)「都心部流入した若年世代が家庭を形成する年齢になっても、かつてのように郊外に流出しなくなったこと」(p.207)。「再都市化」(ibid.)――「不動産価格の下落によって都心部での居住が容易になっていったこと」、「結婚年齢の上昇や非婚化による単身若年層の増加、結婚しても子供をもたないカップルの増加」(p.208)。さらに「少子化」の効果;

かつての都市化と郊外化は、親の家や家業を継承しない地方農村部の次子以降の子供たちを主な担い手としていた。だが全国的に少子化が進行すると、子供たちの多くは親の家を継承することが可能になるので、東京のような都市に上京しようとする動機づけや社会的圧力はかつてよりも低くなる。これは都市への人口集中傾向の停滞、全国的な規模で見た都市化の停滞ということだが、都市化によって都市に集まった人口がその周囲に”溢れ出る”ことで郊外化が展開していった以上、このこともまた郊外化の終わりを押し進めることになるわけだ。(ibid.)
また、「郊外」の「高齢化」;

都心への通勤・通学による結びつきを、その場所が郊外であることの主要な要件であるとすれば、その結びつきがなくなったとき、そこはもはや郊外ではなくなる。もっとも、郊外化の趨勢が弱まったからといって、これまで郊外であった場所から一挙に通勤・通学者がいなくなることはないから、この意味での「郊外の終わり」が一挙に訪れるわけではない。戦前から戦後にかけて郊外化が進んでいった世田谷区や目黒区、杉並区、練馬区などの「都内の郊外」も郊外に含めれば、郊外は「終わる」のではなく、むしろ「縮小」するのだというべきだろう。このとき、都心への交通アクセスの条件が比較的悪い場所に形成された郊外は、通勤・通学による都心との結びつきを失って、非郊外化した地域社会になってゆくだろうが、そうだからといって「郊外なき都市」は生み出されるわけではない。
他方、その場所が郊外であることによって作られてきた生活の形こそがその場所を郊外たらしめ、そうした生活の形を生きることが「郊外を生きること」の本質であるとするならば、それは郊外が新しい局面に入ったのだということになるのだろう。郊外人口が増えるわけではないので「第三次郊外化」とはいえない。だが、現在高齢化しつつある世代が都心に通勤していたときよりも、昼間その場所で暮らす大人の人口は増えている。だからそれを、戦後の郊外の”第三局面”と呼ぶことはできるかもしれない。郊外化がさしあたり終焉を迎えたとしても、だからといって郊外はすぐに終わるわけではなく、これまでに形作られてきた「郊外的なもの」を保持しながら、そのあり方が内的に変容してゆくだろうからだ。
この場合、通勤・通学による結びつきを失って「非郊外化」するとした郊外周縁部もまた、そのなかに生活様式や価値観としての「郊外的なもの」を残し続けるだろう。とすれば、都心と結びついた郊外の周縁に「都心なき郊外」とでもいうべき「純粋郊外」が、持続性や再生産性はもたないかもしれないが出現するかもしれない。住民の高齢化と共に、戦後郊外の第一世代が作り出してきた郊外という場所と社会は生き続ける。(pp.213-214)

*1:南大沢にあり。

*2:ラッセンなどのファン(See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20071210/1197270470 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101105/1288930585 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101106/1289015746 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101109/1289234317)或いは竹原信一清田定男的美意識(See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110111/1294728582 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110118/1295277736)との関係は?

*3:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060301/1141238389 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070318/1174233233 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070819/1187533864 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20071017/1192588766 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080808/1218172800 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090725/1248487830 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100313/1268466640

*4:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060418/1145330536 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090805/1249485120

*5:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20050816 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090524/1243097747 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100318/1268931002

*6:この本の欠点のひとつは、著者が「公務員宿舎」に住んだ経験があるにも拘わらず、社宅とか官舎の存在と意味に論が及んでいないことである。

*7:「23万人」とは当時の町田市の人口。

*8:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060416/1145158222 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060501/1146502155 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070426/1177530648 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070630/1183176001 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090407/1239082386

*9:「マイ・ライフ」というルビ。

『啓蒙如何起死回生』など

本を2冊買う。

許紀霖*1『啓蒙如何起死回生 現代中国知識分子的思想困境』北京大学出版社、2011


自序


第一編 公共領域與知識分子
第一章 重建社会重心:現代中国的知識分子社会
第二章 ”少数人的責任”:知識分子的士大夫意識
第三章 現代中国公共領域的形態、功能與自我理解
第四章 都市空間視野中的知識分子
第五章 従特殊走向普遍:公共知識分子如何可能?


第二編 現代中国的思想伝統
第六章 現代中国的自由主義伝統
第七章 在自由與公正之間:社会民主主義在中国
第八章 従国的境界到自然境界:一個中国知識分子的心路歴程


第三編 世俗時代的正当與善
第九章 公共正義的基礎:研読羅爾斯之一
第十章 全球正義的倫理基礎:研読羅爾斯之二
第十一章 両個美国與政治自由主義的困境
第十二章 在自由主義與共和主義之間
第十三章 世俗化與超越世界的解体
第十四章 世俗社会中中国人的精神生活


第四編 新世紀語境中的啓蒙及其反対者
第十五章 啓蒙如何起死回生?
第十六章 近十年中国的歴史主義思潮
第十七章 富強的崛起、還是文明的崛起?

徐賁*2『文化批評往何処去 八十年代末後的中国文化討論』吉林出版集団、2011


再版序:文化批評往何処去
引言:”文化討論”中国式的文化批評


第一輯 文化批評和公民社会

文化討論和公民意識
”我們”是誰?――論文化批評中的共同体身份認同問題


第二輯 文化批評和社会倫理建設

学術規範的社会理想――従”新国学”的価値観談起
従人文精神到人文教育
当今中国文化討論需要関注的倫理話語


第三輯 文化批評和大衆文化

影視観衆理論和大衆文化批評
能動観衆和大衆文化公衆空間
当今大衆文化批評的審美主義傾向


第四輯 文化批評的政治文化関注

重提”政治文化”
文革”政治文化中的恐惧和暴力
甚麼是中国的”後新時期”和”後現代”?――”現代性”在当今中国的政治文化意義


第五輯 第三世界的文化批評

後現代、後殖民批判理論和民主政治
従本土主義身份政治到知識公民政治――第三世界知識分子及其文化批評
第三世界批評在当今中国的処境


附録1 公共知識分子:記憶有目的、言説有立場
附録2 中国知識分子可以以徳国政治文化学習甚麼?
後記

1996年に刊行されたものの再版。
また、Chris Garneau Music For Touristsジャケ買い
Music For Tourists

Music For Tourists

なお、数日前に、梁文道『噪音太多』*3、それから湯浅治久『戦国仏教』を読了。
戦国仏教―中世社会と日蓮宗 (中公新書)

戦国仏教―中世社会と日蓮宗 (中公新書)