基礎づけられず

http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20101016/1287186255


残念ながら、「進歩」(「進歩主義」)ということによって「左翼」を基礎づけることはできないだろうと思う。たしかジャン=フランソワ・リオタールは近代を特徴付ける〈大きな物語(grands recits)〉として、無知からの解放を目指す啓蒙の物語、生産力の増大による貧困からの解放を目指す資本の物語、搾取からの解放を目指す社会主義の物語を挙げていたと思う。これらの〈大きな物語〉は勿論部分的には相互に齟齬があるだろうけど、これらが全体として〈近代〉という物語を織り成していることは間違いないだろうし、そのコアなモティーフは「進歩」である。近代社会とは「進歩」を自らのMUSTととした社会の謂いでもある。だから、「進歩」を唱えても、それだけでは「左翼」は自らを他から差異化できない。なお、右から左までGo ahead! Never look back! な近代に対して根柢的に疑問を投げかけられるのは(幾分理想化された)〈保守主義〉だろう*1。その基本はどんな薬にも副作用があるという認識だろう。保守主義の意義は調子に乗ったGo ahead! Never look back! に対して、「冷水を浴びせ」ることであろう(山口二郎*2。或いは、〈最大限の収益〉ではなく最小の損失(痛み)を求めること*3。ちなみに、この保守主義は〈復古主義〉とは別物というか、対立するものである。〈復古〉も(方向は逆であるものの)Go ahead! Never look back! である点は変わらない。
ともかく、「左翼」/「右翼」を説明するならば、http://mojix.org/2010/10/15/matsuo-uyosayoで参照されている松尾匡氏のテクスト*4の方がまだわかりいいだろう。
「進歩」に対する批判もちゃんとやらなくてはいけないのだけれど、今は余裕なし。
さて、「左翼」を基礎づけられるのかどうかはわからないが、「階級」とか「階層」に関して2つの観点がある。大方の自由主義者は、もしいい生活がしたいなら努力して学歴を上げるとかチャンスを掴むとかして、今の階層を抜け出して1つ上の階層に行け、但しそのための〈機会の平等〉は保証するというだろう。幸せになりたいなら1つ上を目指せ! というわけだ。それに対して、労働者のまま幸せになろうという考え方もある。つまり、個人的に抜け駆けするのではなくて、〈団結〉によって階級としてのバーゲニング・パワーを高め、それによって階級全体の社会的威信や生活条件を向上させていこうとする(玉野和志『創価学会の研究』、pp.176-177を参照した)。勿論労働運動は「左翼」に回収されるべきものではないけど、「左翼」は後者の立場に左担するものだということはいえるだろう。

創価学会の研究 (講談社現代新書)

創価学会の研究 (講談社現代新書)

 

L’Hositore du Soldat

金曜日、浦東の東方藝術中心で「香港小交響楽団(Hong Kong Sinfonietta)」*1ストラヴィンスキーA Soldier’s Tale(『士兵的故事』)を観る。上海万博の「香港文化週」のクロージング・プログラム。
第一部は先ず方暁佳(Fong Hiu-kai Johnny)のクラリネット・ソロで”Three Pieces for Clarinet Solo”。これは『兵士の物語』が初演された時にスポンサーとなったアマチュアクラリネット奏者Werner Reinhartのために書かれたもの。続いて、フル・オーケストラでバレエ音楽Jeu de Cartes。舞台の片隅でダンサーの陳敏児(Abby Chan)がソリティアをするパフォーマンスをしていたのが可笑しかった。休憩を挟んで、いよいよ『兵士の物語』。ヴァイオリンを悪魔にとられてしまった兵士がそれを取り戻そうとあれこれ冒険をするのだけれど、最終的には悪魔が勝利して、魂を盗られてしまうという物語。マンダリンの台本は邁克(Michael Lam)。設定を現代のビジネス世界に置き換えているので、語り手もダンサーたちも軍服ではなくビジネス・スーツを着て語り・踊る。語り手は舞台俳優でロック・ミュージシャンでもある朱栢謙(Chu Pak-him)。ダンサーは日本人の白井剛、マレーシア人の劉杰仁(Jay Jen Loo)、北京人の黄磊、それから香港人の陳敏児。振付けは伍宇烈(Yuri Ng)。特に白井剛の動きが素晴らしかった。3人の男性ダンサーの中では最もイケメンだったし。また、振り付けでいうと、最後にヴァイオリニストのJames Cuddefordが空のヴァイオリン・ケースを抱えて立つ白井剛に歩み寄り、ヴァイオリンを手渡す動作をしながら握手をするという演出が面白かったのだ。以前高橋悠治編曲の『兵士の物語』を観たのは何時頃だったか思い出せない。そのときはいちばん最後に高橋悠治によるピアノ・ソロがあったのだ。
さて、全体を通して香港小交響楽団を指揮していたのは葉咏詩(Yip Wing-sie)。多分私が知らないだけなのだろうけど、クラシックの世界で女性の指揮者というのは珍しいのでは? また、香港小交響楽団のメンバー表を見て驚いたのは日本人のメンバーが多いこと。しかし、これも私の無知故に海外の他の楽団と比較することはできない。

贖罪信仰とその批判(メモ)

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101011/1286813326に対して、


waferwader 歴史, 共同体, 情報操作 坂本龍馬は、日本のキリスト神話だと思っている。ネイション統合のためのシンボル。『竜馬がゆく』が、マルコ福音書。イエスは生きておられては困る存在なのである。 2010/10/13
http://b.hatena.ne.jp/waferwader/20101013#bookmark-25607403
私は寧ろ(故櫻井進先生が述べたように)その死によって近代日本の国民統合を基礎づけたのは西南戦争西郷隆盛だったのではないかと思うのだが(『江戸のノイズ』)*1。勿論、坂本龍馬が(対内的にも対外的にも)安全な存在であることは間違いない。伊藤博文山県有朋を持ち上げたら、どっかからクレームが来るわけで。
江戸のノイズ―監獄都市の光と闇 (NHKブックス)

江戸のノイズ―監獄都市の光と闇 (NHKブックス)

さて、大貫隆「イエスの絶叫をめぐって」(『図書』740、pp.2-5)という文章を読む。「イエスの絶叫」とは十字架上でのあの「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という叫び。
その意味について、

多数意見はキリスト教会の伝統的・規範的な「贖罪信仰」の道を行く。贖罪信仰で言う「罪」は、原始キリスト教の成立当初は、旧約聖書に記されたモーセ律法に対する違反を意味した。この意味の「罪」は、本来それを犯した人間が償うべきところである。しかし、イエスがその身代わりの贖罪の犠牲(供犠)となって血を流してくれたことによって贖われた。そう贖罪信仰は考えるのである(ロマ三25、一コリ一五3)。やがてキリスト教ユダヤ教から自立し、モーセ律法の拘束力から脱してゆくにつれて、「罪」はモーセ律法に代わる「キリストの律法」への違反を意味するようになった(一ヨハ一7、二1-3他)。現代のキリスト教でも、道徳主義に傾く教派の場合には、「罪」をこの意味で定義し直した上での贖罪信仰が優勢である。いずれにせよ、伝統的・規範的な「贖罪信仰」では、イエスが十字架上で発する絶叫は絶望の叫びのようでありながら、結局のところそうではなく、イエスは神への信頼のうちに、自らをその胸の中に投じたのだと解されるのである。(pp.2-3)
ユルゲン・モルトマン『十字架につけられた神』における「贖罪信仰」批判。大貫先生の要約によると、

もちろん、キリスト教はイエスの復活を信じる。しかし、それは他でもない「十字架につけられた神」の復活として、今現に苦難を負って生きている者たちに、それぞれの「十字架」(絶望)を超えて、きたるべきいのちを約束する出来事に他ならない。イエスの十字架こそが彼の復活をわれわれの終末論的な希望の先取りとするのであって、逆に彼の復活が彼の十字架を贖罪の出来事にするのではない。伝統的な贖罪信仰からはイエスの復活の内的必然性を説明することができない。そもそも犠牲の供え物の復活などということは、語りえないからである(邦訳二四九頁)。(p.4)
また、ルネ・ジラールによる批判;

ジラールの『暴力と聖なるもの』(原著一九七二年、邦訳・法政大学出版局、一九八二年)によれば、供犠とはいけにえによって共同体内の内的緊張、怨恨、敵対関係といった相互間の攻撃傾向を吸収する集団的転移作用のことである。さらに、『世の初めから隠されていること』(原著一九七八年、邦訳・法政大学出版局、一九八四年)によれば、新約聖書ヘブライ人の手紙以降のキリスト教は、父なる神がそのような供犠として、自分に一番親しい子なる神の血を求める「供犠的キリスト教」であり、その特徴は人間の暴力ではなく神の暴力である。イエスの受難を贖罪のための供犠とみなしてきたこと、それこそが歴史的にみたキリスト教の迫害者的性格のものであり続けてきた原因だとジラールは言う。ニーチェのような反キリスト教論者もそれがキリスト教の本質だと考えて、「神の死」を宣言した。ジラールによれば、そのような供犠を求める神は事実「死んでしまうことが必要」である。ただし、その神は福音書のイエスが告知した神ではない。彼の十字架上の死も、あらゆる種類の供犠に逆らった完全に非供犠的な死である。それを解明し、挫折と見えたイエスの刑死の中に隠された神の勝利を認めたのは、パウロ一人だった。こうして、イエスパウロにおいては、「神の暴力」、すなわち供犠の要求が終結している。ところが、そのイエスパウロはやがてヘブライ人の手紙を筆頭とする「供犠的キリスト教」によって覆い隠されてしまった。(ibid.)
さらに、ポール・リクール(『死まで生き生きと』)も「供犠理論」を批判し、「供犠の伝統全体を、贈与から考え直す必要」を説き、「命の贈与の神学を提唱」する(pp.4-5)。
大貫先生の近著『イエスという経験』と『聖書の読み方』は読んでいないのだった。
唐突かも知れないが、アンソニー・バージェス*2『アバ、アバ』*3をマークしておく。
アバ、アバ (1980年) (サンリオSF文庫)

アバ、アバ (1980年) (サンリオSF文庫)