「日記」(メモ)

言葉にのって―哲学的スナップショット (ちくま学芸文庫)

言葉にのって―哲学的スナップショット (ちくま学芸文庫)

デリダの『言葉にのって』から;


これまで私が何を書いたにせよ、一度たりとも私から離れたことがない夢があるとすれば、それは、日記の形式をとった何かを書くことなんですよ。実のところ、書きたいという私の願望は、網羅的な年代記(chronicle)の願望です。私の頭にひらめくものは何か。私の頭にひらめくすべてのものを保存するほど充分に速く書くには、どうしたらいいのか。メモ帳や日記を再び手に取ることもありましたが、そのたびに放棄しました。結局はあきらめたのです。今では、もう日記をつけていません。しかし、それは私の生涯の心残りです。私が書きたかったものはそれなんですから。つまり、《完全な》日記です。(p.26)
デリダがあと数年長生きしていたら、blogを書いていたかどうか。それはともかくとして、少年時代における「日記」を書くという行為について、

(前略)私はたぶん、家族の無理解だと私が考えていたものを前にして、自分の殻に閉じこもっていたのです。書くこと、日記をつけること、その日記の中に詩を書くこと、それは、家族の中で理解されない子供の、個人的な秘密の返報でした。(p.25)
と語ってもいる。

「ガラパゴス」或いは「文法」

http://eng.alc.co.jp/newsbiz/hinata/2009/08/post_591.html
http://eng.alc.co.jp/newsbiz/hinata/2009/08/post_590.html
また
http://eng.alc.co.jp/newsbiz/hinata/2008/11/post_523.html


たしかに従来の「訳読」法がまずいということはその通りなのだが、それに対置される「コミュニケーション重視の外国語教育」というのも、それがそんなに画期的なものだとは思わなかった。また、ここで無視されているのは日本の英語教育における暗黙の分業だろう。公教育で「訳読」法をやって、市中の英会話学校では「コミュニケーション重視」をやる。お互いの縄張りは荒らさず、平和的に共存している。勿論、この2つは教学内容においても相互補完的なのであって、英会話学校では例えば代名詞の格変化(I,my,me,mine)とか動詞の活用は教えてくれない。そういうのは、公教育で習得しているという前提の上で、「コミュニケーション重視の外国語教育」を行っているわけだ。
画期的なものだとは思わなかったのは、そこに「内容主義的意味概念から機能主義的意味概念への転換」(鬼界彰夫ウィトゲンシュタインはこう考えた』、p.246)が見えなかったからである。この転換なくして、organizational competence重視からpragmatic competence重視への転換とは言えないのではないか。実際、日常生活に即した言葉の習得の必要が逼迫している外国からの移民に対する語学教育においては、「機能主義的意味概念」に基づく教科書が作成され、授業が行われている筈だ。

それから、「文法」であるが、ややこしい規則を覚えるという以上に、何か本源的な重要性があるように思える。例えば、日本人が英語で何か言おうとするとき、何よりもまず主語を捏造しなければならない。そこで、主語を必要としない言語と(形式的に)主語が必要不可欠な言語との断絶を経験するわけだ。文法というのは大袈裟に言えば、世界が言語を介して私たちに現れてくる様態(mode)を決定してしまう。法(mood)にしても時制(tense)にしてもアスペクトにしても。肝要なのは、そうした様態を七面倒くさく説明するのではなく、直感的に覚らせることなのだろうけど、果たして「コミュニケーション重視の外国語教育」にそれはできるのか。
ところで、

そもそも訳読の対象というのは、だいたいがこむずかしい論説文や文芸もののたぐいですが、こんなものは実社会との距離が遠い中学生や高校生にはもともと理解がむずかしいという問題があります。また、この手のものを理解しようとなると、どうしても、普段のコミュニケーションでは縁遠い、低頻出語彙をおさえねばなりません。そうとすれば、中学、高校のうちは、「読み書きそろばんができればいい」という発想で、基本的な英語コミュニケーションに不可欠な基本単語の運用法に集中し、むずかしいものを読むのに必要な社会人のためのコアボキャブラリーないしは Academic Vocabulary は大学に入ってからというのが順序というものではないでしょうか。
http://eng.alc.co.jp/newsbiz/hinata/2009/08/post_590.html
「論説文」はともかく、「文芸もの」、例えば小説における特権的なテーマは恋愛であって、また思春期というのも文学の特権的なトポスとなっている。だとすれば、「中学生や高校生にはもともと理解がむずかしい」どころか、却って身近に感じるのでは? そもそも小説の多くの部分は日常会話であって、英語での恋愛の駆け引きも学べるとしたら、それこそ「コミュニケーション重視の外国語教育」じゃん。中学段階で基本的なパターンや文法事項を習得したら、高校段階の英語教育では小説を読むのに費やしてもいいのではないかとも思うのだ。別に「訳読」する必要はないけれども。

社会学、経済学或いは哲学専攻でも外国語の文献を読む。しかし、そこで慣れ親しむのは、(例えば仏蘭西語だったら)仏蘭西語一般ではなくて学術論文の仏蘭西語でしかない。小説を精読することで培われた語学力というのはとにかく凄いものでありうると考えている。それは小説というメディアそれ自体の性質による。小説には当該の言語(langue)に属するありとあらゆる言葉が集まっていると思われる。単純な話、小説の多くは地の文と会話から成り立っているので、小説を読めば、書き言葉も話し言葉も知ることができる。さらには、上流階級の言葉と下層階級の言葉、都会人の言葉と田舎者の言葉、男言葉に女言葉、老人の言葉にガキの言葉、政治の言葉に経済の言葉、さらにはセックスの時の喘ぎ声等々。「文学教育」としては邪道なのかも知れないけれど、語学教育の一環としての小説の精読というのはかなり有効なのではないかと思うのだけど、どうなのだろうか。
http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070220/1171981896
とも書いていた。

See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090115/1231990978

恋はヘーゲル主義?

梁文道「解謎」(in 『我執』*1、pp.29-30)より;


我們通常認為愛情是感性的、知識則理性的。然而我要告訴你的、却是愛情乃一種至為複雑的知識活動。由於恋人相信自己完全看透了対方的本質、而且他是唯一掌握這個真実知識的人、所以有人曽戯弄地把黒格爾*2的“主奴辯証法”套用在情侶的関係上、“主人主宰了奴隷的命運、但奴隷却対他的主人了如指掌。”你控制了我的身心、不過我看穿了你的真実。(p.29)
この本の最初の部分は、ロラン・バルトの『恋愛のディスクール・断章』を下敷きとした恋愛論が連なっており、それが徐々に(横滑り的に)他のテーマへとすり替わっていく。
ところで、

草食動物的反芻是不由自主的、恋人的言語亦然。既然没有人跟你説話、既然大部分的時候你都是一個人工作、一個人守候、你難免開始反芻自己的回億。(「反芻」、p.69)
というパッセージもあり。梁文道氏は日本文化のトレンドにも詳しい人だが*3、これを書いたとき、「草食男子」なる言葉を知っていたかどうか。 

フィルムセンターは?

『ソトコト』に移ってからの田中康夫浅田彰憂国呆談』は


http://www.sotokoto.net/yukokuhodan/index.html


さて、「国営マンガ喫茶」と揶揄もされている「国立メディア芸術総合センター(仮称)」の是非が話題になっていたとき、不思議に思っていたのは、賛成派も反対派も国立近代美術館フィルムセンター*1のコレクションのディジタル化問題に言及していなかったことだ。映像資料コレクションの国家的なプロジェクトとしては、既にフィルムセンターがあり、新たに「メディア芸術総合センター」なるものを作るよりも、そちらの機能を充実・拡大する方が優先されるべきだろうと思っていたのだ。まあ所謂オタクどもは秋葉原に足を向けることはあっても京橋に足を向けることはないんだねと思っていたのだが。それで、田中康夫氏曰く、「京橋に位置する国立近代美術館フィルムセンターが所蔵する過去の名作・秀作のアーカイヴをデジタル化する保存事業には、微々たる予算しか投じていないのが問題」*2