『自己意識の現象学』

最近読了した本;


 新田義弘、河本英夫編『自己意識の現象学 生命と知をめぐって』世界思想社、2005

自己意識の現象学―生命と知をめぐって (SEKAISHISO SEMINAR)

自己意識の現象学―生命と知をめぐって (SEKAISHISO SEMINAR)

取り敢えず目次を抜き書きしておく;

まえがき――現代の自己意識論への概観――(新田義弘)
序論 自己意識の現象学の課題――反省理論からの解放――(新田義弘)


I 自己意識の現象学

1 生き生きした現在と根本的分裂(小川昌宏)
2 身体構成と自己意識の可能性――カントおよびフッサールの時間論の深淵から――(飯野由美子)
3 キネステーゼと大地(武内大)
4 個と〈個を超えるもの〉――フッサールにおける個体性の自己意識と他者経験――(田口茂)


II 自己意識論と現代の哲学

5 自己意識のアポリア――デュージング「自己意識の理念的発生史」の批判的紹介――(日暮陽一)
6 〈生の哲学〉の自己意識論――ヨルクとデイルタイにみられるその基本構想――(大石学)
7 ハイデガーの自己論――時間・空間・自己――(河村次郎)
8 差異化としての持続――ベルクソンメルロ=ポンティドゥルーズ――(重野豊隆)


III 自己意識と自己言及性

9 現代芸術論と自己意識――音楽経験と自己意識――(宮内勝)
10 意識への計算論的アプローチ――認知科学における自己意識論――(橋場利幸)
11 指標詞「私」と現代の自己意識論――カスタネダの自己指示の理論から――(塩川千夏)
12 システムの自己言及性(河本英夫


IV 大乗仏教の自己概念

13 「生き生きした現在」と述語的経験――現象学と東洋思想――(佐藤幸三)
14 唯識三性説と自己概念(石井登)
15 反省から自覚へ――唯識「四分義」と自己意識の問題系――(司馬春英)


文献案内
あとがき(新田義弘)

個々の論文についての言及は後日のこととし、ここでは新田義弘先生が執筆している「まえがき」から少し抜き書きを行うことにする。

今日の自己意識の問題系の展開は、近代哲学に見られる自我概念の実体論的特権性への批判、ならびに実体としての自我や主観性の構想の解体作業と一体となってすすめられている。その試みはさまざまなかたちをとって登場したが、自己意識固有の非反省的な機能を近代哲学の反省理論から解放して、あらためてそれに迫ろうとする試みであるという点では、共通している(p.ii)。
その展開は2つ若しくは3つの方向に纏められることになる。
先ずは、ヘンリッヒやフランクによる「フィヒテの知識学」、「ドイツ・ロマン派の自己意識論」の読み直しと「英米系の言語行為論」といった「自己意識の現場性」を強調する「自己意識の行為論的展開」、「他者との相互行為の現場にはたらく自己理解の役割への関心」(pp.ii-iii)。
次いで、「自己意識の根源的な生動性」、「人間の世界経験と自己経験の根底にはたらく生命の自己理解」を問う「生の哲学」。「生の哲学」はさらに、


 「生命と知の関わりを原パースペクティヴの成立というところから探ったニーチェの「力への意志」の思想や、知の生動性と多極性とのあいだの相互依存関係である「生き生きした差異性」を説いたP・ヨルクの生命哲学の方向」

 「シュライエルマッハーからディルタイを経てH−G・ガダマーに至る解釈学的方向」


に分けられる。後者は「自己意識の行為論的展開」に(批判的ながらも)接近する。前者は「ベルクソン以来のフランス心身論的生命論とも呼応して、最近の現象学に起きている「顕現せざるものの現象学」の展開に寄与する先行的な仕事を果たしている」(p.iii)。
これらを纏めてみると、「自己意識」論は、一方では「行為する現場での行為的自己理解の現象学的記述」(p.iv)として、もう一方では「行為の動く場面ではけっして語ることのできない」「顕現さざるもの」への「接近」(p.v)として展開されることになる。

知への愛の問題

http://web-teacher.jp/
http://report.rakugan.com/


http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20070131/p2http://takayak.moe-nifty.com/episode2/2007/01/post_9440.htmlにて知る。但し、不図思い出して、拙blogを検索してみたら、一昨年の12月に桑江さんのblog*1のURLをマークするという仕方で、この問題には目をつけていたことになる*2
この件に関して、特に川瀬さんはかんかんにお怒りになっている。大学の先生の立場としては当然であろう。
http://web-teacher.jp/wt-rule.htmlによると、「卒論の雛形」*3のほかに、「卒論雛形の内容理解をサポートする資料(A4一枚程度で背景や目的などを箇条書きにしたもの)」もつけてくれるという。これは口頭試問対策か。私自身の感覚だと、自分が書いていないものに署名して、さらに口頭試問に臨むというのはちょっと堪えられない気がする。ばれるんじゃないかというプレッシャーは相当のものだ*4。ただ、どこの国でも、大企業の社長とか政治家のスピーチというのは自分で書くのではなく、官僚とかプロのスピーチ・ライターが書くのが普通だろう。つまり、これらの人々は他人の言葉を自分の言葉として自ら読み上げ、さらに政敵やメディアの質問に耐え、その結果として起こる社会的な論争も引き受けなければならない。他人の言葉を抱えて卒論の口頭試問に臨むというのは、将来政治家になりたい人とかにとっては予行演習ということになるのか。
川瀬さん曰く、


でも、やはり一番腹を立てているのは、恐らくこのサイトの利用者に対してではなく、運営者に対してです。お前さんたちは恐らく高学歴なんだろうが(見知らぬ学生の代行ができるくらいだから、そこそこお利口さんなんでしょう)、ゴミクズだよ(人間性も書いたレポートも)。お前さんたちは、自分たちの行為で自分が出た大学のことも冒涜しているんだぜ。こういうくだらないことをこなせるようになるために、高学歴になったとでも言うのか?高学歴者は、難関校に入ったことが偉いんじゃなくて、出てから大層な仕事をするであろうということで世間様から甘やかされているわけだろうが。それが判っているのか?もし、「このようにして、レポートや卒論を無価値にすることが、俺たちの大学に対しての復讐なのだ」なんていう高尚なこと(あくまで皮肉だよ)を考えているんなら、話は別だが。
先のサイトを見ると、大学院生のアルバイトのようではある。先日、内田樹氏の或るテクスト*5が面白いと思ってそれに言及した*6。但し、そういうのって決して主流ではないだろうし、ここ数十年かの傾向に対するマイナーなバックラッシュにすぎないのだろう。その傾向とは学歴とか学問を短絡的に経済価値に換算しようとする傾向である。或いは、〈世の中〉(って誰だよ)の役に立ってなんぼという発想。そういう中で、アカデミズムの権威がそれ自体として肯定されるわけではない。それと同時に、知への愛とか知の悦びといったものもお呼びじゃなくなってくる。ここ数年来の世代バッシングに与するつもりは毛頭ないが、団塊の世代はアカデミズムの権威をぶっ壊した。中には〈学歴社会〉そのものからドロップ・アウトした人もいるけれど、団塊の世代は学歴による利益だけはしっかりと享受した。それ以降の世代にとって、大学の意味というのは功利的な意味しか残っていないと元全共闘で名古屋の方で予備校の先生をしている牧野剛という人がいっていた。こういう業者のサイトを見て感じるのは、そういう(或る意味では荒涼とした)アカデミズム観だ。
なお、この件に関しては、辻大介氏のテクスト*7も共感するところが多かった。

*1:http://blog.livedoor.jp/skeltia_vergber/archives/50115381.html

*2:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20051215

*3:「雛形」ということは「お客様」ご自身が最終的には仕上げて下さいということか。

*4:私たちが卒論を書いた時代ならいざ知らず、現在でも通用するのかという疑問もある。教科レポートならともかく、現在では昔とはくらべ物にならないくらいの、きめ細かいというか殆ど手取り足取りの論文指導が多くなっているように感じるからだ。ゼミに全然出てこないような奴が立派な卒論を出したということになると、どんな先生だって怪しむでしょ。

*5:http://blog.tatsuru.com/2007/01/22_1017.php

*6:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070130/1170131794

*7:http://d.hatena.ne.jp/dice-x/20070131#p1

Todai-moto-kurashi

マイミクの長瀬さんが「灯台下暗し」というタイトルで日記を書いているのだけれど、内容とは関係なく、「灯台下暗し」の話。
実は20歳になる頃まで「灯台下暗し」の意味を知らなかった。というよりも、todaimotokurashiを適切に漢字変換できなかったのだ。todaiからは「灯台」という漢字が思いつかず、思いついたのは東大である。つまり、東京大学に関係のある何かなんだ。それから、motokurashiだがデモクラシーの親戚、政治に関係のある何かだと思っていた。
要するに、昔の自分の無知を自慢しているだけなのだが。

金正南は葡萄牙人?

 「中国外交部回応金正日長子居住北京和澳門報道“没有聴説金正南在中国」『東方早報』2007年2月2日


1月31日に金正南が澳門に到着した云々という報道に対して、「中国外交部発言人」はそういうことは聴いていないと回答したという。金正南を北京で見かけた云々というのは、以前度々日本のワイド・ショーなどでもネタにしていたと思うが、今回の噂で新しいのは彼が葡萄牙のパスポートを持っているということか。

フェミ化する英国

http://www.telegraph.co.uk/opinion/main.jhtml;jsessionid=RRPUI1GKIZEV3QFIQMGCFFWAVCBQUIV0?xml=/opinion/2007/02/01/do0101.xml


Daily Telegraphに載った国会議員Boris Johnson氏の”I'll tell you why women are running out of men to marry”というエッセイ。
Johnson氏によると、英国の大学におけるfeminisationが進んでいる。また、これは将来、英国社会の、特にエリート的なセクターのfeminisationを導くだろう;


Most trainee barristers and two thirds of medical students are now women — compared with 29 per cent women in the early 1990s. If current trends continue, most doctors will be female by 2012. It is ludicrous for the Equal Opportunities Commission to keep droning on about "glass ceilings" at the top of corporate Britain, or in the judiciary, when you think how fast this transformation has been.

It is a stunning fact — the biggest social revolution of our lifetime — that far more women than men are now receiving what is in theory an elite academic education. When I was at university 20 years ago, the figures were almost exactly the other way round, with the ratio 60:40 in favour of males. Far more female graduates are coming out of our universities than male graduates — and, in 30 years' time, when these people reach the peak of their careers, the entire management structure of Britain will have been transformed and feminised.

しかしながら、”greater equality between the sexes is actually leading to greater division between the classes.” また、それとともに高学歴女性のいっそうの〈ブリジット・ジョーンズ〉化。下の引用にもあるように、1970年生まれの大卒女性の40%は40代になっても子どもがないだろう;

Since the emergence of our species, it has been a brutally sexist feature of romance that women on the whole — and I stress on the whole — will want to mate/procreate with men who are either on a par with themselves, or their superior, in socio-economic and intellectual attainment. A recent study*1 shows that if a man's IQ rises by 16 points, his chances of marrying increase by 35 per cent; if a woman's IQ rises by 16 points, her chances of getting hitched decline by the same amount.

Now look at those university entrance figures again, feed in that basic human prejudice, and some recent social phenomena become intelligible. If you have a sudden surge in the number of highly educated women — more women than men — then it is not surprising that you have a fair few Bridget Jones-type characters who are having a tough job finding Mr Darcy. It is a gloomy truth that 40 per cent of female graduates born in 1970 are likely to enter their forties childless.

As a result of the same instinct — female desire to procreate with their intellectual equals — the huge increase in female university enrolments is leading to a rise in what the sociologists call assortative mating. A snappier word for it is homogamy. The more middle-class graduates we create, the more they seem to settle down with other middle-class graduates, very largely because of the feminine romantic imperative already described. The result is that the expansion of university education has actually been accompanied by a decline in social mobility, and that is because these massive enrolments have been overwhelmingly middle-class.

そして、

Let's put it bluntly: nice female middle-class graduates are either becoming permanent Bridget Joneses, or marrying nice male graduates, and they seem on the whole to be turning up their nice graduate noses at male non-graduates. And when the nice middle-class graduate couples get together, they have the double income to buy the houses and push the prices up — and make life even tougher for the non-graduates.

The result is that we have widening social divisions, and two particularly miserable groups: the female graduates who think men are all useless because they can't find a graduate husband, and the male non-graduates who feel increasingly trampled on by the feminist revolution, and resentful of all these hoity-toity female graduates who won't give them the time of day.

*1:Who has done?