恐怖の政治/文化としての民主主義/ジョン・バージャー

 Madeleine Bunting
 "Fear and loathing"
 Buntingさんによると、「恐怖(fear)」というのは、「政治生活における最もパワフルな通貨」に属する。恐怖に駆られるとき、私たちは普段よりも政治家たちの言うことによく耳を傾ける。安心させてもらいたいのだ。7/7以後の英国はまさにそのような状況。


The danger is that the imperative to satisfy the emotional needs posed by fear and its close associate, anger, will end up crippling our capacity to respond effectively to the threat of Islamist terrorism. The "what works" British pragmatism is in danger of being junked for emotionally satisfying but irrelevant symbolism - a few individuals are banned or deported but the websites they run will penetrate just as deeply into the hearts and minds of some British Muslims.
 Buntingさんは、「恐怖が政治をかたちづくる」には3つの仕方があるという。

The first is that politicians provide a narrative structure that can satisfy the "why" question: why us, why now and why here? That involves a clear plot and a plausible cast of goodies and baddies. The scale of the plot must be big enough to provide a large enough description of our fear, which usually means the threat is greatly inflated. And the goodies, of course, must win. The aim of the narrative is to offer emotional reassurance on several levels. It has to say it's understandable you're so afraid; we're on the side of good against evil; we will vanquish our enemies.
第2の仕方は"the desire for uncompromising clarity"というもの。つまり、

When people are fearful, they want to know who's on their side and who's not - everyone has to be assigned as goodies or baddies, good or evil. Anyone who introduces complexity or context blurs that clarity and must be bullied into silence. So there is now a growing constituency that no longer distinguishes between the analysis and the justification of an atrocity. The result is a willed ignorance - people don't want to understand. There's a blanket rejection of how understanding is the crucial underpinning for effective policy. They want only a politics of symbolism to meet their emotional responses of fear and anger.

Finally, the third impact of fear is that it, understandably, prompts a great desire for solidarity. There has been much talk of standing together and uniting around shared values. But the quest for a meaningful national identity around which we can all rally is at risk of buckling under the weight of its contradictions. For example, there have been two parallel debates about national identity this summer.
 第1の仕方、これは〈物語化〉といってもいいが、その例としてBuntingさんが挙げているのは、保守党の「影の教育大臣」であるDavid Cameron。彼は「イスラーム主義テロリズム」をナチズムに喩えた。そうすると、"an epic struggle of Britain and America against an evil system in which we were victorious - our proudest hour and all that"という物語が生成する。さらに「ナチズムというアナロジーの最大の美点」は"a valuable political opportunity to define yourself and ensure a damaging definition of your opponent"を用意することである。敵か味方か。自らが邪悪なナチス擬きと闘うヒーローならば、そのように闘っている自分に逆らう者、同調せざる者は〈敵方〉にカテゴライズされる。つまり、〈自明な悪〉として定義された〈敵〉への恐怖をダシにして、〈われわれ〉内部の目障り・耳障りな連中(リベラルとか左翼とか)を徹底的にバッシングすることが可能になる。
 さて、Buntingさんは政治哲学者のBhikhu Parekhの移民たちの「ホスト社会への情動的・道徳的コミットメント」を育む責任があるという発言を参照して、"But if they don't, how is such a thing to be engineered?"と問う。何しろ、現代は"an increasing number of people across the globe live where they don't want to belong"という時代なのだ。ともかく、「恐怖の政治はここ数か月のうちに[国民]共同体の纏まり(commnity cohesion)についてのいかれた政策ブームを誘発するだろう」。

The most troubling aspect of how fear is distorting our political life is that it is crippling our grasp of two crucial truths: Islamist terrorism is vicious but it will not destroy our country - it can kill hundreds but it will not take over our government and impose sharia law. We need to be much calmer about the nature of the threat, and more sophisticated about the scale of risk. What's happened to that British virtue of prosaic good sense so much in evidence on the evening of July 7 and so little in evidence since?

Second, our biggest ally in tracking down the perpetrators and our only chance of defeating Islamist terrorism is the Muslim community itself. That's why the willed ignorance is so dangerous. A sophisticated understanding is vital if we are to identify and nurture the processes of development and thinking among Muslims that are already struggling to defeat Islamist extremism and chart another future for the faith.

 取り敢えず頭を冷やしなさいということだろうか。ただし、「恐怖」に凝り固まっている人間に〈冷や水〉の効き目がどれだけあるのかは定かではないが。
 「恐怖の政治」というのは日本でも無縁ではない。というか「恐怖」という「パワフルな通貨」を使用しない政治権力・政治勢力なんてないだろう。最近よく動員される「恐怖」を挙げれば、北朝鮮、中国、或いは〈ハゲタカ外資〉。勿論、〈外国人犯罪〉という「恐怖」も流通している。Buntingさんはここでは言及していないが、「政治家」(或いは官僚)が私たちを安心させる代償に求めるのは、法令であり、もっと具体的には管理・監視の強化ということだろう。〈共謀罪〉とか。また、「恐怖」が政治において「パワフルな通貨」であるということは、「恐怖」が消失してしまったら、〈政治的アドヴァンテージ〉は失われてしまうということである。ということは、「恐怖」はモデル・チェンジすることはあっても、消失することはないということである。


 George Monbiot
"How to stop civil war"

 Monbiot氏は、憲法制定が難航しているイラクの現状について、先ず前提として"the shadow of occupation"ということを指摘する。つまり、"While US and British troops stay in Iraq, no government there can make an undisputed claim to legitimacy. Nothing can be resolved in that country until our armies leave."というわけだ。さらに、シーア派並びにクルド人スンニー派の対立は石油利権も絡んでおり、今後「内戦」に突入する危険性もある。そこで、Monbiot氏が提案するのは、"to abandon the constitution it has signed, and Bush's self-serving timetable, and start again with a different democratic design"ということである。また、憲法草案にはかなり深刻な矛盾が詰まっている。そうであれば、草案を一括して二者択一的に賛否を問うということが無意味になってくる。
 アメリカ人にとってみれば、イラクにおける憲法制定というのは、アメリカ独立革命におけるアメリカ合衆国憲法制定の反復である。そうだとしたら、独立革命期のアメリカがイラク民主化のモデルとなる。Monbiot氏はこうした思考について、


But it should also be obvious that we now live in more sceptical times. When the US constitution was drafted, representative democracy was a radical and thrilling idea. Now it is an object of suspicion and even contempt, as people all over the world recognise that it allows us to change the management but not the firm. And one of the factors that have done most to engender public scepticism is the meaninglessness of the only questions we are ever asked. I read Labour's manifesto before the last election and found good and bad in it. But whether I voted for or against, I had no means to explain what I liked and what I didn't.
とコメントする。憲法を云々する前提として、先ず"a culture of democratic debate"が育まれなければならない。そうしてこそ、"a widespread sense of public ownership of the country's political processes"が共有されるというわけだ−−" Not only is your own voice heard in these public discussions, but you must also hear others. Hearing them, you are confronted with the need for compromise." 逆にイラクの現況は、

But when negotiations are confined to the green zone's black box, the Iraqis have no sense that the process belongs to them. Because they are not asked to participate, they are not asked to understand where other people's interests lie and how they might be accommodated.
ということなのであり、Monbiot氏は"For the people who designed Iraq's democratic processes, history stopped in 1787."とまで言い切っている。そこで参考になるのが、寧ろニカラグア及び南アフリカの例であるという。

Deliberative democracy is not a panacea. You can have fake participatory processes just as you can have fake representative ones. But it is hard to see why representation cannot be tempered by participation. Why should we be forbidden to choose policies, rather than just parties or entire texts? Can we not be trusted? If not, then what is the point of elections? The age of purely representative democracy is surely over. It is time the people had their say.
 "a culture of democratic debate"にせよ、"public ownership of the country's political processes"にせよ、たんにイラクの問題であるというよりも、私たち全ての課題であるとは言えるだろう。


 8月30日、ジョン・バージャー『見るということ』(笠原美智子訳、ちくま学芸文庫)を読了する。
 1966年から1979年の間に書かれた絵画論・美術論を集めたもの。原著の刊行は1980年。
 以前、ジョン・バージャーについては、失礼なことを書いてしまった。私の英語読解力に問題があるのかも知れないけれど、そのときは本当に陳腐だぜと思ってしまったのだ。しかし、この本は違う。ここで取り上げられた写真や絵画或いはアーティストは、17世紀のジョルジュ・ラ・トゥールからマグリットフランシス・ベーコンまで幅が広く、当然ながら(私にとっては)知っているのもあれば全く知らなかったのもある。お馴染みの画家や作品を論じていても、私が知らない或いはあまり馴染みがない画家や作品を論じていても、とにかく文章に惹きつけられる。
 バージャーの絵画の論じ方を大雑把に言えば、画家が絵画を描くという身振り(当然、〈描く〉という身振りには、論理的前提としてまた事実として、〈見る〉という身振りが伴っている)へ遡行しようとする傾向である。勿論、画家の描く−見るという経験は他者の過去の経験であり、直接接近することはできない。勿論、描く−見るの痕跡としての作品から類推することは可能である。しかし、それは所詮類推であり解釈であるにすぎない。バージャーが画家の描く−見るという現場に立ち戻る仕方は、画家や作品の周囲に着目することである。ベタな言い方をすれば、時代的・社会的背景ということであったり、風土であったりということなのだが、ここでちょっと申し添えておけば、画家や作品を超越する外在的な何ものかに、画家や作品を因果的に還元するということではない。それはあくまで描く−見るという身振りの地平であり、そうした身振りの、或いは作品の誕生の現場の一つなのである。この現場は自然、経済、家族、制度としての美術、幼時の記憶等々が錯綜する場であり、勿論そうした錯綜を引き受ける描く−見る身体が無視されるということはない。
 「解説」において、飯沢耕太郎氏は、「バージャーに最も近い思想家」はベンヤミンではないかと述べている(pp.272-273)。たしかに*1。しかし、私としては、バージャーがトルコ人の画家であるシーカー・アーメット・パサを論じた「シーカー・アーメットと森」において、ハイデガーを中心的に援用していることが目を引いた。彼はシーカー・アーメットの『森の樵』という絵を見た途端、「興味が湧き、惹きつけられた」(p.113)という。曰く、

 その絵の色や画質、色調はルソーやクールベ、ディアズのそれを彷彿させる。ちらりと見ただけでは、印象派以前の画家の手によるヨーロッパの風景画に見える。一方で、眼は森に吸い寄せられる。その絵には、逆に観る人を抑止するような重力があるのである。そしてこの重力こそがこの絵の特徴である(p.113-114)。
バージャーは「この絵に独特の権威を与えているのは、樵の経験に忠実に描かれているからである」(p.116)と述べている*2。曰く、

 樵の話を語るために、シーカー・アーメットは自分も樵のように森に向き合った。クールベが絵で、またツルゲーネフが小説で(両者共に森を愛し彼の同時代人であることからここに挙げたのだが)、同じように森に向き合ったことはなかっただろう。彼らは森以外の世界と関連づけて森を配置した。言い方を変えれば、死にそうな鹿や、愛について考える猟師など、そういった重要なことが起きている場面として彼らは森を捉えていたのだ。
 一方、シーカー・アーメットはそれ自身がそこに存在するものとしての森と向き合った。(後略)(p.119)
さて、ハイデガーである*3。バージャーは、『思考についての講話』から「距離の近さという概念に入り込んでいく」というフレーズを抜き出す(p.120)。そして曰く、

 シーカー・アーメットの絵は、「距離の近さという概念に入り込んでいく」ことを描いている。私はこのことをはっきりと事実として描いている絵を他に知らない(セザンヌの後期の作品はハイデッガーの視点に非常に近い。ハイデッガーの後継者であるメルロ=ポンティセザンヌを深く理解した理由でもあろう)。「距離の近さという概念に入り込んでいく」動きは相互作用的なものである。思考は距離に近づき距離も思考に近づく(pp.121-122)。
また、

 [シーカー・アーメットの絵において]樵とラバは前方に歩を進めている。しかしこの絵は彼らを静的に描いている。彼らはほとんど動かない。動いているのは何かといえば(略)森なのである。森はその実在をもって樵の反対方向に、私たちに向かって、左方向に動いている。「実存の意味するところ−−それは人間に接近し、彼に至り、辿りつくために不断に待ち構えることである」(略)この絵との関係において、彼[ハイデガー]の言葉は極めて適切で平明である。彼の言葉はこの絵を解き明かし、その魅力の謎を暴いてみせる。この絵は彼の言葉を追認している(p.122)。
 写真を論じた文章、中でもドナルド・マッカランヴェトナム戦争報道写真を論じた「苦悩の写真」、スーザン・ソンタグに捧げられた「写真を使う」では、写真家の見る−撮るという身振りだけでなく、写真を見るという身振りにも焦点が当てられているように思われる。マッカランの作品は、「恐怖や負傷、死、悲嘆などの突然襲いかかった苦悩の瞬間を記録している」(p.58)。勿論、その瞬間は「普通の時間と全く切り離されている」(ibid.)。「苦悩の瞬間」と断絶しているのは、その写真に「釘付けになって」(p.59)いる者の日常的時間とである*4。バージャーは、こうした「写真に写された一瞬から普通の生活に戻ろうとするとき、私たちは無意識に、この不連続性は自分自身の問題であるかのように思ってしまう」(ibid.)。言い換えれば、「こうした不連続性を自分自身の個人的、倫理的な欠点だと思ってしまう」(pp.59-60)。ここで、

その瞬間を作り出した戦争の問題から、政治的要因が効果的に取り除かれることとなる。写真は人間の普遍的な行為の証拠写真となり、誰も告発せず、そして同時にすべての人を非難する(p.60)
「写真を使う」でも「一瞬」が問題にされる−−「写真それ自体は何も語らない。写真は一瞬の外観を留めるにすぎない。一瞬を留めることによって起きる衝撃は、写真の特性によって和らげられる」(p.76)。では、写真が何かを語るためには何が必要なのか。それは写真に留められた(既に過去となった)「一瞬の外観」を想起すること、「言葉や他の写真と共に[その]写真の文脈を創り出すこと」(p.87)である。曰く、

 何かを思い出すときには色々な働きかけが絡まってくる。思い出されたことが終着点なのではない。多くの働きかけや刺激がそこに収束し、そこへと導いていく。さまざまな言葉、比較、記号が、写真の文脈を創り出すのに必要である。多様な働きかけに注意を払い、道を開く必要がある。(後略)(p.90)
 考えてみると、「苦悩の写真」と「写真を使う」というのは1つのセットになっているとも言える。「瞬間」に「釘付けにな」ることから身を引き離して、そこで隠蔽されてしまう〈政治性〉を恢復するための仕方、その回答の1つが「写真を使う」にあるのではないか。また、「文脈を創り出す」ことというのは、最初の方で述べた如く、この本を全体として貫くスタイルでもあった。
 この本の最初に収められた「なぜ動物を観るのか」は、藝術作品の批評というよりは、人間の動物への眼差しを、歴史的・人類学的に省察したエッセイだが、後日機会があれば、詳しく取り上げてみたい。


 時事的なネタについてのメモ;
 〈郵政民営化〉問題について、賛成派の意見としては、http://blog.so-net.ne.jp/joe-n/2005-08-30があった。わかりやすいことはわかりやすいのだけれど、これまでに紹介してきた反対派の議論と比べて、レヴェルが高いとはいえない。それから、「郵便局なんか要らない!」という勇ましい意見もあるが、ちょっと短絡的か。反対派の意見だが、dokodemodoa_jpさんの「偽計に満ちた小泉構造改革と郵政民営化」は大作。この中で、インターネットの普及=郵便の衰退ということに対する反証が提示されている。また、郵政民営化アメリカへの戦争資金の提供というきくちゆみさんの意見も耳を傾ける必要があるだろう。
 それから、〈ホリエモン〉についてのArisanさんの意見。ごもっともではあるが、立ち読みした『週刊朝日』によれば、〈ホリエモン〉は自衛隊イラク駐留延長に反対しており、この点では小泉と対立していることは申し添えておこう。いくら〈郵政民営化〉だからといって、〈靖国〉とかについていけるのかどうか。


 密かに注目しているのが、村井寛志さんの


「ゴッドハンド大山倍達と東亜連盟」
http://d.hatena.ne.jp/murai_hiroshi/20050823/1125408188

「戦後“実戦空手”のポストコロニアルな起源」
http://d.hatena.ne.jp/murai_hiroshi/20050825/1124920893

であるが、これが将来本格化すれば、日本−朝鮮−満洲−沖縄を繋ぐ広大なスケールの〈裏昭和史 〉が描けることになる。
 

*1:飯沢氏が注目しているのは、この本の最後に収められた「もはや美術批評とすら言い難い」(p.273)エッセイである「野原」である。

*2:バージャーは、「ミレーと農夫」において、「人物を描いたミレーの代表作」(p.108)が「失敗作」であるとし、その理由として、「風景画」という制度に「ミレーの持ち込んだ主題が適応できなかった」ことを挙げている(p.109)。つまり、「ヨーロッパの風景画の多くは、後に旅行者と呼ばれる都市からの来訪者に向けて描かれた。こうした風景は来訪者の視点に立ち、その壮麗さも彼[来訪者]のためのものであった」(ibid.)。ミレーは「土地の前で行なわれるのではなく、その土地で働く農夫の労働の、過酷で忍耐力を要する肉体の状態」を描こうとしたのだが、「そうした主題を描く表現を生み出すことは、風景画の伝統的な伝達手段を壊すことになるのだろう」(p.110)。「シーカー・アーメットと森」では、このミレーの困難について、「旅人/傍観者は地平線に向き合っているのに対して、大地に屈み込んで働いている農夫にとって、地平線は視野に入らず、見えるとしても、天候を決める空の縁を囲い込んだ周辺部でしかない。ヨーロッパの風景画の言語で、こうした経験を表すことはできないのである」(pp.116-117)と述べられている。

*3:彼はハイデガーについても、大工の息子であること、シュヴァルツヴァルト生まれであることに言及することを忘れていない(p.121)。

*4:ここでも、「撮影された状況にいた人々」、「死にそうな人の手を取り、傷の血止めをしている人たち」の視点との違いが言及されている。