「後半戦」(鷲田清一)

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20181023/1540310304に対して、


haruhiwai18
"自律的な主体性の根拠のひとつ""主体性を維持するためには、括約筋の衰えを緩和するトレーニングがあって然るべき""事態が深刻なら、括約筋の機能を代行する人工的な装置が開発されて然るべき" →おむつをですね(ry
2018/10/24
http://b.hatena.ne.jp/haruhiwai18/20181024#bookmark-373146986
括約筋による排泄のコントロールを「自律的な主体性の根拠のひとつ」と書いたときに想起していたのは、鷲田清一先生の『教養としての「死」を考える』*1の一節。

文化というのは粋なもので、エクスタシーのことを小さな死と呼んでみたりすることがあるわけですが、たとえばSMなどは典型的な死の遊びといえるように思います。
あのゲームは、とくにMの人にとっては、黄泉の国まで出かけていって向こう側に着く直前になってから帰ってくるというのと、ほとんど変わらない経験なのではないでしょうか。身体を縛られて自由を奪われ、強制排泄で意志を無視され、覆面を被って顔を隠され、最後には豚と呼ばれて名前まで消される。総じて人間であることに必要な基本的な条件を根こそぎ消去されるという、死とすれすれの遊びであるわけです。
だからこそ、ペアで力をあわせてほとんど超越的な世界を垣間見るような一面があって、その証拠とでもいいますか、SMの遊びには、ゲームが終わった後になって後半戦というのものがあるらしいのです。つまり、生きた心地がしないほどの凌辱の果てまで連れていかれ、命からがらになって生還を果たした、この世のものとも思えないMの人の姿を見ているうちに、Sの人にある狂おしい感情がわいてきて、相手の身体を洗ってあげながら優しくいたわってあげるらしいのです。
Mのほうでは、Sがいて、責めながらも守ってくれなければ、そんな黄泉の国の淵のようなところにまで行くことなど怖くてできないはずですから、二人の間には、ある超越性に媒介された信頼関係が成り立つわけです。また成り立っていないと、できないゲームなのでしょうね。(pp.66-67)
教養としての「死」を考える (新書y)

教養としての「死」を考える (新書y)

ところで、これも思い付きなのだけど、SM系の老人ホームというのができれば面白いんじゃないかと思った。