壬生狂言(齋藤亜矢)

齋藤亜矢「在と不在」『図書』(岩波書店)、832、2018、pp.46-49*1


壬生狂言*2について。「言葉が「不在」の舞台」。


台詞がないだけでなく、謡もない。音は、笛と太鼓と鰐口(鐘)のシンプルなお囃子のみ、役者の身振り手振りなどのパントマイムから、話の流れを読みとり、会話を想像することになる。
しばらく見ていると、パターンがあってわかりやすい動作もあり、頭のなかで台詞をあてながら見るのが楽しくなった。たとえば「安達ヶ原」の鬼婆に、旅人が次々と食べられてしまうシーン、鬼婆の正体を知らない旅人がやってくるたびに一連の動作が繰り返される。脳内アフレコは「長い道のり、山をいくつも越えてやってきました。もう足が疲れて歩けません。どうか今宵一晩泊めていただけませんか?」。逆に、どんな動作だったか思い浮かぶだろうか。とにかく想像力をフルに使う感じで、全曲目が終わった夕方には、心地よい疲れがあった。
壬生狂言は、正式には壬生大念佛狂言といい、発端は鎌倉時代、円覚上人の教えを求めて大勢の人びとが集まったため、声が届かなくても内容が伝わるように考案されたものだそうだ。もとは宗教劇だが、娯楽としても発展し、能や物語なども演じられるようになった。
その演じ手が、ふだん別の仕事をしている地元の有志だと知って驚いた。所作が洗練され、指先まで美しかったからだ。言葉でごまかせないからこそなのだろう。なにか京都の底力のようなものを垣間見た気もした。(pp.47-48)